つてゐるのです。といふのは、長谷川如是閑氏の定義を拝借しますと、「文明といふものは生活表現の洗練である」といふことです。文化人が例外なく心掛けてゐる生活表現の洗練の中に、何が生れるかといふと、儀式が生れる、儀礼が生れる、といふことであります。儀礼儀式といふ点に触れますと、そこに一つの芝居的なものが自然に生れます。既にかういふ講演会といふやうなものも、或る意味では、芝居であります。胸にこんな花なんか付けて出てくる、芝居気が無くては出来ません。それからまた、道で人に遇つて挨拶をします、これもお互に、全く約束がなかつたならば何の事か判らない、頭を下げるが何の事か判らない、それがおじぎだといふことが判るのは、お互にさういふ約束があるからで、これが一つの儀礼であります。かういふ事柄が既に芝居の芽なんです。これを意識的に、諸君の生活の中に儀礼的要素を取入れるといふことが文化の一つの表はれでありまして、その取入れ方、取入れる質によつて、その文化の善し悪し、また、洗練されてゐるか、或はまた非常に幼稚であるか、粗野であるかといふことが判るのであります。
私の考へるところによりますと、さういふ意味で、実際生活の中に、芝居的なものを最も多く取入れてゐる種類の人間が、今この世の中に居ます。それが、他の人間に比べて、文化的に洗練された種類の人間かどうかといふことは別問題です。何故ならば、さういふ儀式的なもの或は装飾的なものを取入れてゐる取入れ方、或は、取り入れたものの質が、場合によつては、非常に幼稚であり、粗野であり、或は型にはまりすぎてゐる場合には、必ずしも、文化的にレベルが高いといふことは言へないのでありまして、たゞそれが芝居的の要素であるといふことは注目すべきであると思ひます。それを職業的にみて見ますと、先づ裁判官といふものは非常に芝居をするものです。弁護士も同様。その次に、坊さん、もう少し広く云へば、宗教家といつてもよいでせう。それから軍人であります。それにもう一つ附け加へ度いのでありますが、それは学校の教師です。(笑声あり)
自分が役者である、実生活の中で、何か芝居的なことをやつてゐることに堪へられない人間は、所謂自然であらうとします。その自然であらうとすることは何であるかといふと、一つの、固定した文化に対する反抗であります。現在の文化或は、自分の身に付けてゐる文化といふものに
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