る。
それなら見物はそれで満足してゐるかといふと、必ずしもさうでない。第一、一興行を欠損なしに打ち通すためには、「連中」といふ制度を設けて、俳優に切符の押し売りをさせ、割引の方法で団体を勧誘し、莫大な広告費を投じ、いはば、「無理矢理に」見物を掻き集めてゐるのであるから、見物の「嗜好」といふやうなものは、明かに知ることができない。
彼等は劇場に、「何かを求めに」来るのではない。何を与へられても、その時々、感興の起り方が違ふのである。価値批判などする余裕はない。刺激的なものほど、ざわめきが大きいといふだけである。その「ざわめき」の程度によつて、興行者は「当つた」かどうかを判断し、次の出し物を撰ぶ参考にする。それ故、劇評家の批評などは、役者が気にするだけで、興行者はなんとも思つてゐない。
しかし、興行者も、かういふことは考へてゐる。「当節は、見物が気まぐれで、どんなものを求めてゐるか見当がつかない。われわれは決して、これ以上のものをやらぬとはいはぬ。見物さへ満足してくれれば、どんないいものでもやる」と。
いいものなら、見物が満足しないわけはないと考へられないこともないが、必ずしも営利
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