自問自答
――所謂「新感覚派」の為めに――
岸田國士
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僕は未だ嘗て「余は新感覚派なり」と自称した覚えはない。また、人が「彼らは新感覚派をうち立てようと努力してゐる」と云ふのに対して、「然り」と云つた覚えもない。
処で、最近、新聞や何かで、大分「新感覚派」がやつつけられてゐるのを見て、「おれは一体、新感覚派なのか知ら」と自ら問ふた次第である。
文芸時代の同人は大部分新感覚派であるといふのが定評であるらしい。大部分と云ふからには例外もあるのだらう。おれは、その例外の一人に違ひない。かうも考へた。
しかし、新潮の合評会記事を見ると、錚々たる文壇の識者が、おれを新感覚派にしてくれてゐる。さて、話がわからない。
お前は、全体、新感覚派といふ意味がわかつてゐるのか、かう自ら問ふて見て、はじめて、いや、実は、そいつがわからないんだと白状する自分が、少々癪に触つたので、文芸時代一月号所載、横光君の巻頭論文や、いつか時
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