私の従軍報告
岸田國士

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     戦線は無限に広いこと

 武漢が落ち、広東が陥ち、わが軍の作戦区域が著るしく拡大されたことは云ふまでもないが、私の今度の中支従軍を通じて、現実にこれは大変だと感じたことは、普通第一線と呼ばれてゐる作戦軍の正面以外に、鉄道の沿線と揚子江流域の重要な都市を囲む殆ど中支一帯の地域に残敵の有力な部隊が蟠居して、わが占領地区を脅かしてゐることである。これらの敵は、勿論、種々雑多な素質と編成によるもので、必ずしも恐るゝには足らぬが、なかには相当の訓練と装備を有する正規軍も交つてゐることであるし、中央の指令もなかなかよく行き亙り、住民と腹を合せていざといふ決心さへつけば、わが警備の手薄に乗じ兼ねないのである。
 この意味で、上海より武漢に亙る後方勤務の各部隊は、一地に駐屯するものと、絶えず移動するものとを問はず、ひとしく対敵行動の姿勢を瞬時も崩すことのできぬ特別な事情にある。
 この度の事変は、政治的にもある例外的な宣言を必要とした。同時に、戦略的にも、戦術的にも、これを一般の前例に当てはめることはできない、まつたく、風変りな戦である。われわれは、日本軍の奇略縦横、疾風迅雷のファインプレイに拍手を送るものであるが、敵の執拗なゲリラ戦術とやらには業を煮やさざるを得ぬ。
 私は、武漢攻略の華々しい肉薄戦にも増して、孤立無援の小警備隊が、前後左右に数倍の敵を控へ、日夜緊張し、秘策を練り、虚に乗じて進み、厳として与へられた地域を守る、目立たない苛烈な任務にひとしほ心惹かれたものである。
 しかも、この警備隊は、事変の最後目的たる平和建設の困難な工作に直接参与すべき使命をもつてゐるのである。少くとも、かの匪賊化した抗日分子と、営々、安居楽業を欲する「良民」とを截然と区別して、日本の理想を大陸に行はんとする基礎を示さなければならぬ重大な役割を負ふてゐるのである。
 私は、なによりもそのへんのところをよく観ておかねばならぬと気づき、いろいろ研究の結果、先づ、江都県楊州の警備隊本部を訪れた。こゝで十日間、ぢつくりと腰をおろして、警備、討伐、宣撫、その他あらゆる方面で、現に、日本軍が何をなしつゝあり、支那民衆が何を求めつゝあるかといふ点を観察した。
 丁度私の着いた翌日、やゝ大規模な討伐が行はれ、小川隊長の計らひで、私も、本部の一員に加はつた。当面の敵は、楊州北東数キロの陣地に拠る正規軍で、兵力はもちろんわれに数倍するものであつた。この戦闘の情況はこゝでは略すが、楊州地域を窺ふ敵は、この外、西北に陳文の率ゐる雑軍、西に例の大刀会匪なる私兵があつて、これらを合すればその兵力は優に数万と称せられてゐる。
 楊州の地区本部を中心としてそれぞれ更に小守備隊が前方に出てゐる。若い小隊長の率ゐる数十名の一隊が、敵の迫撃砲を浴びながら、一寒村に起臥してゐる有様を想像してみるといゝ。住民の向背は、神のみぞ知るである。毎日のやうに強行偵察が行はれる。機を見て敵の背後を衝く冒険が演ぜられる。密偵が潜入する。本部との連絡が必要である。眠る暇がよくあると思ふ。
 住民は何時の間にか日本軍を信じ、これに頼つてゐるのである。たゞ、恐れるのは、何時か日本軍が引上げて行き、再び此処へ支那軍が来ることである。
 戦線はかくの如く無限に広いことを国民はとくと知つてゐなければならぬ。

     建設工作への国民的協力を

 警備隊と協力し、警備隊の「武装せる日本」と並んで、地方組織の確乎たる樹立とその建設事業を指導援助し、「武装せざる日本」の知能と活力とを示すものに、かの特務部の地区班がある。これは最近まで宣撫班といふ名称で呼ばれてゐた軍の一機関で、班長以下、それぞれ愛国の熱情を以て、時には身を危険に暴しつゝ東奔西走してゐるのである。このことは恐らく一般に知られてゐることゝ思ふが、なにしろ、これは実際を見ないと、その仕事の範囲が如何に広く、複雑で、かつデリケートであるかといふことはちよつと考へただけではわかるまいと思ふ。
 あまり深く立入つたことは喋れないが、事変後の支那、殊に北支などゝはやゝ趣を異にする中支の健全な発展は、たとへ如何なる中央機関ができたところで、これら現地で直接民衆に接触する人々の双肩にその全責任がかゝつてゐることは、私の信じて疑はないところである。
 勿論、当局においては、最も適当な人材を選び、十分の統制の下に、この事業の遂行を期してゐることゝは思ふが、一方、更に、各地区の復興と、新たな「日本認識」のために、選ばれたる国民の自発的進出によつて、その任務をより一層完全に、速かに、かつ円滑に進め得るといふ着眼を、僭越ながら、私は当局に求めると同時に、国民、殊に、文化的教養と進取の精神に富む青年諸君に促したいと思ふ。
 私が、特に自発的進出と云ふのは、必ずしも、これらの機関の中で働くといふ意味ではなく、寧ろ、全く民間の一篤志家として、個人の資格でもよし、団体の名においてゞもよし、ともかく、中支那の各地方々々で、文化国日本の矜持にふさはしい「生き方」をしてみせ、支那民衆の、就中知識層の日本認識の上に望ましい一転機を与へ得るやうな、事実的根拠を与へよと云ふのである。
 この意見が、抽象的すぎるとすれば、もつと具体的に述べよう。
 軍隊は志気旺盛、軍紀厳正、勇猛果敢なることによつて、支那民衆を感服せしめてゐる。特務機関は、政治・経済・思想の各面において、日本の立場を闡明し、彼等をしてわれに依らしめんとしてゐる。政治的には、維新政府を枢軸とする地方の各組織が徐々に結成され、経済的には、日本資本の注入も約束され、産業開発、税収増加も期待し得る状態にある。
 が、その方面のことは私の知識は不十分で何等専門的な発言はできないのであるが、例へば、文化部門に於ける、教育とか、宣伝とか、救済とか、娯楽施設とかいふ方面においては、今日まで、現地機関の手が十分廻りかねてゐる実情を無理からぬことゝ考へた次第であつて、これこそ、国民一般が、その精神的能力を総動員する立前から、是非とも必要の度において、それぞれの技術と信念と努力とを進んで提供すべき場所だと私は痛感したのである。
 更に細かい点にふれゝば、占領地各都市町村には、少くとも一つ以上の邦人経営の支那人のための小学校、中等学校が必要である。また、何れの学校にも日本人の語学教師がゐなくてはならぬ。これは一日も忽せにすべからざる問題である。
 現に、楊州地区では、私個人にではあるが、日本語教授のための青年を十人選定して欲しいといふ依頼があつた。実際は、その必要が感ぜられてゐながら、それを国民一般が知らずにゐるといふ法はないのである。道がついてゐなければ、その道をわれわれの手で拓かなければならないと思ふ。楊州ばかりではないと思ふが、他に本職のある兵隊さんや特務部の班員諸君が、忙しい時間をさいて、熱心に日本語の講習をしてゐるところをみると、われわれはなにをしてゐたのだと思ふ。

     中支に張られた欧米の根

 私は中支の各地方で、出来る限り所謂欧米の権益なるものを調べてみた。かういふ調査は、軍部や外務省あたりでは既にちやんとできてゐると思ふが、われわれには、経済的な既得権、乃至は、不動産の類といふ風にしか理解できなかつた。
 ところが、私の見聞によれば、それもむろん相当なものに違ひないが、さういふ数字的な領域よりも、寧ろ、支那及び支那人を本質的にキヤッチし、本国の国旗のもとに於てゞはあるが、日常的には宗教の名に於て、その優越せる近代文化面の誇示と利用によつて、彼等を悦服、信頼させ、人間愛と社会的良心との巧まざる発露を感じさせることに成功し、その礼拝堂に跪く善男善女の数よりも、その学校に通ひ、その病院に集まり、その孤児院を訪ひ、その慈善市に寄附するものゝ数がはるかに多いといふ事実に重点をおきたいのである。
 支那の知識層は固より、市井の目に文字なきものさへ、欧米人の下に使はれることを得意とし、彼等の言語動作は、他の如何なる支那人よりも朗かであり、卑屈の風が見えないといふところまで張つた自然の根を見落してはならぬ。
 欧米依存の理由は多々挙げることができるであらう。フランスの一宣教師で、在支五十年といふ人物に会つた時、彼は、私に語つた。
「自分が今日までを支那で過した経験からいへば、嘗て、日露戦争後の一つ時、支那の上下をあげて日本贔屓であらうとした。日本でなければ夜が明けぬといふ状態になりはせぬかと思つた。その頃、誰が今日あることを想像し得よう。欧米人が日本人と異ることを若し支那において行つたとすれば、それはかうだ。欧米人は金を少し余計に出した。しかも、それは、資本を支那人の手に委ねて、その利益の幾分を要求するといふ仕方であつた。日本人は、金を出し惜んだ。しかも、君達は、自分で儲けて、その分前を彼等に与へようといふのだ。彼等は前者を選んだのだ」
 私は、この意見が正しいかどうかは知らぬ。もしそれに誤りがないとすれば、心理的に、結果は明かな筈である。支那人ぐらゐ心理の複雑な民族はないと私は思ふ。欧米人は、かの解剖癖によつてそこをつかんだといひ得ないであらうか?
 日本人の単純の美徳が、支那において容れられないとすれば、なんとか手を考へるべきである。
 私はかういふいひ方を好まぬが、欧米との対立が今や云々されてゐる時、欧米が支那に対して従来如何なることをなしたかといふ研究がもつと行はれてもよさゝうに思ふ。国民は、それについて何を知つてゐるかと云へば、欧米は悪鬼の如く支那人の血を吸つたと云ふことだけである。恐らくそれは事実であらう。しかし、それだけが欧米依存の理由にはならぬ。これまで支那を旅行した人々は、地方の小都市に於てすらマリヤのやうな白色の尼僧が、貧民の娘たちに見事な刺繍を教へてゐる姿を見かけなかつたであらうか?
 日本は外務省の手で同仁会病院を経営し、上海には自然科学研究所といふ堂々たる学術の殿堂を築いたといふかも知れぬが、これを宣伝の側からみれば、例によつて露骨すぎるのである。そして、何故に、日本人は「日本のために」といふ看板が外せないのであらうか?
 われわれ同胞は、男女を通じて、欧米人の彼地においてなしつゝある程度のことを、なし得ない道理は断じてないのである。宗教はある人々にとつてこそ現実の補足であり、信念の拍車であるかも知れぬが、わが日本人は、それなくしては何もできぬといふ国民のうちにははひらぬ。それなら、何がそれを妨げてゐるか? はつきり云へば、わが国の最近の歴史は、かゝる能力あるものゝ手足を縛る不可思議な「思想」に支配されてゐたからである。

     外に伸びる力を内に養へ

 しかしながら、もう今となつては、看板のことなどは問題でない。このまゝ押して行くより仕方がないのである。たゞ、実際の仕事の上で、支那人の面目を尊重してやればよからう。ところで、私は、彼地に於て日本人がどうあらねばならぬといふ前に、それが既に国内に於て、さうあることの必要を力説したいと思ふ。
 戦場の到るところで、われわれは、日本人の日本人らしさに出会ふ。戦場なるが故に、特に平生の日本人でなくなつてゐるといふ事実には一度もぶつからなかつた。これから支那で建設的な事業にたづさはる日本人が、国を離れたから急に日本人ばなれがするといふ風には考へられない。国家としても、国民の上に及ぼす力以外の力を、外国なるが故にその民衆の上に及ぼし得るといふ理由は成り立たないのである。
 日本及び日本人の幾多の美点にも拘はらず、文化といふものに対する考への狭さ、固苦しさ、国家の発展といふ問題に対する希望の不透明、一種のファナチズムは、なんとかならないものかと思ふ。日本文化の宣伝に日本の自然や単なる特殊性を持ち出す非常識が繰り返され、西洋は物質文化、東洋は精神文化などゝいふ無意味なスローガン
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