ばさすつてもあげたい。しかし、家にゐて、あれこれと気をつかふのは彼。お国のためといふ言葉が、こんなに身近な言葉だとはつい知らなかつた。なにかしら、得意と安心。だが、私も疲れた。

七月二十九日
親類に行きし娘らみそぱんをもらひ帰りぬ昔なつかし
娘らよわれおんみより小さかりきかの教場にみそぱん食《は》みし
暑い。ガラス鉢の熱帯魚が羨しい。夕食後、冷い林檎を噛みながら、ふとはげしい懐疑に襲はれはじめた。かういふ世に、自分のやうな女が一番無用なのではないかと、世間に対しさうであり、夫や子供の世話にかけても不器用で、また若いときの苦労、仕込の足りない女。
私の愛は夫を幸福にするやうなものであつたかどうか。

七月三十日
お灸とは少しおどけしものならむ病気をまじめに思はずなりぬ

七月三十一日
お向ひの野口さん重態の由。衿子たちはおその小母さんに頼まれ竜ちやんのお守りをしてあげる。
子供の水泳着のことを心配したり、病人のお菜のことで女中にあれこれと云ひつけたりしてゐるとき、ふと「仕事」が彼の頭にかへつて来る。俄然、彼は夢から覚めたやうになり、落着きを失ふ。
家族の世話をやく時、彼の注意は綿密をきはめ、そのため何かいたましい感じすら感じさせる。彼が一日でも二日でも家をはなれ、都会を離れ、ぼんやりしたり、勝手放題なことを考へたりできればと、私はどんなにかのぞむのだが、さて彼が留守になると、やつぱり不安なのである。
不意に「瞬間」がやつて来ることはないか。その「瞬間」の感じをせめて眼でなりと彼に語りたいのだ。

八月一日
真理子さんが上海の浴衣地を仕立てて持つて来て下すつた。ヨットや浮袋がついてゐる。海に行つた気分だけでも味はつてくれとのこと。また泣きさうになる。
暁暗の紀淡海峡にほのぼのと浮べる真帆も思ひいでつゝ
モーターボート浪をま白く切りて行くかの爽快も幾年知らず
ゴーギャンの描きしタヒチ思ふかな浴衣の船を眺めてあれば
白き帆の風にはためく音すなりいざ行け小舟わが夢のせて

八月十一日
白雲の空をおほひて湧き湧くを一と日ながめてつひに飽かざり
火てふものの生にかゝはる因縁を思ひみるかな灸をすゑつゝ

八月十五日
菅原さん来訪。お花を下すつた。紅をさしたやうな百合、薄紫の刷毛のやうな花、菊、りんだう。
[#ここで字下げ終わり]

 日記はこゝで終つてゐる。
 八月十七日、あの雷雨の夜、容体が急変して、一週間の後、遂に呼吸《いき》をひきとつた。
 かうして、二十年の間を隔てた日記の断片を二つ拾つてみると、私には、彼女の生涯といふものが、なにか満たされないまゝに終つたやうな気がしてならぬ。
「満たされる」とはどういふことか。それは結局生き方の問題である。彼女が私との結婚生活に「あるもの」を求めてゐたことはわかるが、それが、私に云はせると、すべて結婚生活に求むべきものであつたかどうか、大いに疑問があるのである。
 家庭生活が女の生活の全部だとする説に私は必ずしも同意するものではない。女はまづ母でなければならぬといふ意味に於てさへも、私は、母といふものを一家族が独占すべきものではないと信じてゐる。
 家は生命の根幹であり、生活の基盤であつて、そこから人間のあらゆる営みが発動するのである。「家」は「家」としての一つの目的をもつけれども、目的そのものではない。家は家としての理想を、夢をもつ。しかし、家は理想でも夢でもないのである。
「家」の現実は、女を往々にして、がんじがらめにする。現実は、これと闘ふべきではなく、これを処理すべきものである。勇気よりも忍耐が必要である。知識よりも技術、技術よりも単なるコツが物を云ふ。
 一切の浪漫主義は「家」の外にある。家は浪漫主義者をも排斥しはしない。しかし翼をひろげさせない。少しの空想も、そこでは息苦しい。愛といふものに若し貪婪な性質があるなら、そこでは、妻は夫から、夫は妻から愛されてゐるとさへ思へないのである。

 家内の死によつて、私は、彼女の存在が明らかに私を左右してゐたことを知つた。言ひ換へれば、彼女がなんのために私のそばにゐたかといふことがよくわかつた。
 私はいちいち家内と相談をして内外の事を運ぶといふ方ではなかつた。それにも拘はらず、彼女ゆゑに、為し、彼女ゆゑに為さなかつたことのいかに多いかに、今、驚いてゐる。いつの頃からか、ずゐぶん若い頃から、私は自分の幸福といふやうなことを考へる習慣をなくしてゐる。しかし、家内の幸福といふことだけは、結婚以来、念頭を去つたことはない。なんらの見栄もなく云ふが、ある時期には、家内の幸福のために、彼女さへそれを望めば、いつそ実家へ返さうかと思つたことさへある。
 家内は日記にその当時のことを書きつけてゐるが、それを本気にしてゐない様子である。彼女には、さういふ私がいかにも冷やかに思はれたらう。今ならば、私もさう思ふ。
 私たちの夫婦生活には、いはゆる危機といふやうなものは一度もなかつたやうに記憶する。二人は十分それを警戒し、それらしいものを意識することさへ恥ぢる気持が明らかにあつた。
 しかし、それが結局、いゝことであつたかどうか、今の私にはわからない。雨降つて地固るといふやうな、さういふ経験を一度も味はない夫婦に、なにか欠けてゐるものがあるとしたら、私たちは正しくその部類に属するであらう。
 家庭の平和といふ言葉が、それほど安易に使へるなら、私たちの生活は平和であつたと云つていゝ。それと同時に、問題にならぬやうな口喧嘩もしなかつたわけではない。それに、私たちは、いづれ劣らず喧嘩ぎらひの方であつたから、つい、喧嘩には身が入らなかつた。をかしいことに、早く冷静をとりもどす競争をするつもりだなと、雲行きの怪しかつた後の彼女をみると、私には思はれるときが多かつた。

 日記を読んでから、家内のその時々の心の動きをはじめて知り得たといふやうなところもあるにはあるが、それよりもやはり結婚前の、それも恐らく誰にものぞかせなかつたらうと思はれる心の秘密の一切を、私が否応なしに聞かされたといふことは、これこそ私にとつて例へやうのない事件である。
 そこには、夫たる私が知つてはならぬことが記されてゐたであらうか。私は敢へて云ふ。知つてはならぬことは何ひとつ記されてはゐない。しかし知らなくてもよいことが、そここゝにいつぱい書きちらしてあつた。
 私は、はじめ、なにか取り返しのつかぬことをした、といふ気がした。私は読むべからざるものを読んだといふ、悔恨に似た苦味を胸ふかく味つた。だが、すこし落ちついて考へてみると、彼女は、特にそれを意識してではないにしろ、私の手に平然として自分一人の過去の歴史を残して行つたのである。それは、彼女が、私との結婚に際しても、なほかつ葬り去るに忍びない歴史として、筐底に納めたまゝ私の許に運んで来たといふことである。
 かくて彼女は、彼女のすべてを私に示し、私に与へた。今、私は彼女の苦しみを、悲しみをわがものとすることができた。彼女の、終生追ひ求め、しかもそれがはかない幻影にすぎなかつたものを、私はやうやくにしてそれと察することができた。日記を通じて、口癖の「淋しさ」は、そこにあり、その淋しさのゆゑに、彼女は身をも心をも瘠せしめたのだと私は思はざるを得ぬ。
 私は、それにしても、この十八世紀的憂悶をそのまゝ是認する気はない。彼女の日常の言動にそれが現はれてゐたならば、私は仮にも容赦はしなかつたであらう。彼女は慎しみ深く私の前にそれを押しかくすことに努めてゐた。
 しかし、彼女の浪漫主義は、自分の鏡にそれが映るほど世紀末的なものではなかつたと、私は一方、彼女にそれをきかせたくもある。
 彼女は大旅行を常に夢み、殊に印度、中央亜細亜或は阿弗利加の奥地に心を惹かれてゐたらしいけれども、横浜から神戸までの僅か一昼夜の海上生活にたわいなく満足し、隣組の問題には驚くほど熱心で、近所の子供たちを集めて音楽会をやらせ、自分がお守役を引きうけるといふ始末である。

[#ここから1字下げ]
昭和十五年二月十一日
昨日は忙しい日だつた。
客、○○○さん。明大新聞の人達三人、文理大の三人。
晩の十時頃になつて○○○○さん。○○さんの媒酌人になれといふのが表向きの用事。
晩いので泊めてあげる。
朝、お雑煮をこしらへる。鶏肉、かまぼこ、松茸、はうれん草、海苔。
食後の話、天孫降臨の地について。政治。釈迢空の歌について。
柳田国男氏の伝説研究について。
二人の愛国の士風の会話。
三時のおやつに蜜柑をやつたら、○に不平をこぼす。因つて、晩に少しばかりお説教をしておく。今の日本人はぎりぎり入用なものだけ、食物なら成長に必要な、生きて行くのに是非必要なものだけで我慢をしなければならないこと。二人ともおとなしく聴いてゐる。
夜、体温七度二分。
チボー家「診察」篇を読みはじめる。
フィリップ博士の素描。
[#ここで字下げ終わり]

 かういふところへ来ると、私は、彼女の「淋しさ」が「空想の淋しさ」ではなかつたかとさへ思はれるのであるが、それをさうと断言する自信は私にはまだない。
 いづれにせよ、彼女は、次第に結婚生活の現実に順応しつゝあつたことは事実であつて、そこに新しい何ものかを発見したかどうか、それがまた彼女の半生をいくぶんでも生き甲斐あるものとしたかどうか、私にはたゞそれについての希望的判断が許されるだけである。
 疑ひないことは、公私を通じての私の仕事をよく理解し、常に私を励まし、慰めてくれたこと、主婦としての生活の設計に頭を悩ましながら絶えず細かなことが意の如くならず、日々を重荷の如く引きずつて来たといふこと、母としては、愛情の表現について、やゝ懐疑的であつたと思はれるふしがあるけれども、気分にめづらしく晴曇なく、娘たちにとつてこの上もない清らかな「母」の映像を残して行つたに違ひないといふこと、これだけである。

 青春に酔ひ、天才に魅せられ、かくあるべき人生を幻に描いてゐたこの薄命な一人の女の生涯を、私は、それが私の妻であつたがために悲しみ、憐れむものである。
 時代と環境によつて導かれた女性の「教養」の型について、私は今しみじみと「犠牲」といふ言葉に思ひ及んでゐる。
 十五年間、家庭を営むための惨憺たる努力の跡は、すべて彼女としては、日常茶飯の技術の上にあつたといふこと、それは綿密なノートだけではどうにもならぬ感覚の訓練と伝統の反射作用とでも云ふべきものであつたことである。従つてそれはもう絶望的と考へられるほど瑣末な神経の巨大な浪費を意味してゐた。病弱な肉体の過重な負担であつたことは想像に難くない。
 彼女の憩ひと自由とは寧ろ精神の散歩のなかにあつた。しかも、孤独な散歩である。
 地上の幸福は遂に訪れるべくもなかつた。宗教を求めて信仰をかち得ず、自尊の蔭に涼風をあつめて、静かに死を待つた一時を思ふと、私は、泣かざらんとして泣かざるを得ぬのである。
 私は亡き妻の日記が私に教へるところに従ひ、世の若き女性に愬へる。
 日本の女としての、真の幸福とはなにかといふことを、今こそはつきりと自覚しなければならぬ。
 それは第一に、日本の男を男らしく作りあげるといふことにあると私たちは信じる。妻として夫を、母として息子を、主婦として世間の男たちを。
 第二に、それがためには、女は女の本性を最高度に発揮することである。古来、女の「たしなみ」と云はれたものは、日本の歴史が作りだした理想の女の魅力ある映像であつた。
「たしなみ」が「教養」といふ言葉に変つたとき「たしなみ」のもつ「道」としての、即ち、心身一如の訓練による生活の技術的体得が忘れられたのである。
 男子の場合もまつたく同様である。
「たしなみ」は、道徳と技術との綜合の上に描かれた人間生活の軌範であり、また、それぞれの社会的、性的、年齢的条件に応じて示される力と美との活きたすがたであり、信念と叡智と品位との最も巧まざる表象である。
 近代の「教養」も亦、結果としてこれと等しきものを目ざしてゐながら、それは、衣裳の如く身に纏ひ、せ
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング