妻の日記
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)私事《わたくしごと》

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 かういふ場所で私事《わたくしごと》を語ることは、由来、私の最も好まぬところである。如何なる理由があらうとも、誰がどう勧めようとも、私は今日までその気持を押し通して来た。従つて、小説の形ですらも、「私」の身辺を題材とすることは、それがたとへ現代文学の主潮であらうとなからうと、私は頑として享け容れなかつたのである。
 ところが、去年は母の死に遭ひ、今年はまた妻を喪つて、私の生活は激しく揺り動かされ、「家」といふものの存在がはつきり私の全体につながつてゐる事を痛感させられた。それはやがて、私のこれからの仕事にも影響し、また、世の中を観る眼をもかへさせるだらうと思ふほどである。私がこれから、いくぶんの勇気をもつて語らねばならぬ「私事」は、いはゆる私一個に関することではなくて、おそらく万人に共通の問題であり、殊に、この時代に日本に生れ育つたものの、ひとしく身をもつて経験し、または、するであらういろいろな事実を含んでゐる筈である。
 さて、私の母は、七十七歳の長寿を全うして世を去つたのであるから、云はゞこれは自然の順序であり、特に異常な衝撃を受けるといふやうなこともなかつたけれども、妻は、結婚後十五年、病床にあること半歳、私が医師から危険の宣告をうけて僅か三日後に、四十年の短い生涯を終つたのである。
「死」といふ運命についてだけ考へると、その死にかたによつて著しく意味は違ふにせよ、今や、何人もわが身に近い一人の死をいたづらに嘆き悲しむ時ではない。それゆゑ、私は決して、妻の死を悲しむ、その悲しみを人に訴へようなどとは毛頭考へてゐない。
 私はたゞ、世の常の夫として、「妻」なるものの全貌を、その死とともにはじめて胸中に描き得たことを識り、驚きをもつて、彼女の生前の日常を想ひ浮べてゐる。私の記憶をこまごまと喚びさますものは、妻が折ふしに、気の向くまゝに書きしるしたと思はれる日記風のノートの断片である。もちろん、公表すべき性質のものではなく、私にさへ読まれたくはないものと察せられるが、それが偶然私の眼に触れるやうなことになつたのである。一作家の妻として、繋累の多い家庭の主婦として、二人の娘の母として、彼女がどういふ重荷を背負ひ、どんな疑ひを疑ひ、どんな憂ひを憂へたかといふことが、走り書きの文字の間にありありと読みとれる。そして、その印象は、私の個人的な感情をゆすぶるばかりでなく、なにかもつと広く、もつと厳粛なものとして響くやうに思はれてしやうがない。
 結婚前の日記がわりに細かく、丹念に続けられてゐるのに反し、結婚後は、ずつと飛びとびに、それも心覚えの程度にしかつけられてゐないのも、私にはうなづかれる。
 かうして、妻の日記を手がかりに、私は、一人の女の生涯について考へはじめた。
 家内の葬儀をすましたあとの、私および私一家の空虚と照しあはせて、彼女の存在の意味が日一日と強く心に感じられるにつけても、私は彼女の死を機縁として、この重大な時代を生きつゝある日本の女性に、なにか言はねばならぬことがあると信ずるに至つたのである。

 私たちは、どちらかといふと晩婚の方であつた。家内が二十六、私は三十七であつた。夫婦といふもののねうちは、二人がつくる歴史の重みにあるのだと私はかねがね思つてゐる。従つて、一緒に暮した年月の長いこと、ことに結婚前よりも結婚後の生活経験の方が豊かであることは、夫婦をして真の夫婦たらしめる根本的条件の一つである。私たちの家庭生活において、私はともかく、家内が一番気を遣つてゐたと思はれることは、早く、共通の流儀を発見したいといふことであつた。それといふのが、さて一緒になつてみると、めいめいに、いはゆる「自由」の名において書生流の好みと習慣とを身につけ、それを無意識にではあるが相手に押しつけようとするところがあつた。この傾向に対して、これではいかぬといふことに気づき、早く云へば、夫唱婦随の真精神をつとに実行に遷さうと努力したのは彼女であつた。
 大正末期から昭和の初頭にかけての社会的風潮は、女性の思想的立場をも著しく動揺させた。当時の女書生気質とでもいふべきものは、今日からみると、よほど特色があるやうに思はれる。女性の解放とか自覚とかいふことが大いに叫ばれ、叫ばれるのみならず、社会的現象として幾多の実例が示された。イプセンの「人形の家」が日本の家庭の出来事としても受けとられさうな気勢を示す一方、婦人参政権運動が大いに同志を集め、産児制限の主張とか、友愛結婚の提唱とかが話題として巷を流れたのは別として、女子の高等教育が世論の賛否に拘はらず着々普及しはじめ、東京帝国大学も遂に女子聴講生の制度を設けるに至つた。
 女性と雖も、その上、左翼思想の流行に無関心ではゐられず、アメリカニズムの宣伝に耳を傾けないわけにいかぬといふ始末である。
 かういふ雰囲気のなかで成長した一日本女性の精神の歴史を、私は明らかに家内の結婚前の日記にみる。
 この時代の波に乗りきれぬ何かが、彼女の稟質のなかにあり、しかも、彼女は、おぼろげな夢を抱いて前へ進まうとしたのである。そこには、理性と感情との分裂がなくはない。けれども、それ以上に、現実と空想との織り交つたある種の少女に特有な心的生活の風景があるやうに思ふ。
 彼女は二十四まで学生生活をしつゞけたのであるが、むろん時代の影響のほかに、それは本郷西片町に住んでゐたといふ関係もあり、近しい友人の示唆もあるにはあつたであらう。しかし、なによりも、私は、彼女が両親と共に山陰の田舎町から東京に出て来て、見知らぬ周囲のなかで、さゝやかな移住者の生活をしてゐたといふところに大きな原因があると思ふ。彼女は、おそらく、自ら恃《たの》むところのものを、自分の身にしつかりつけたかつたのである。学問そのものを好むといふよりも、学問に親しむといふことこそ、彼女の憧れであつたと云つてもいゝ。
 いはゆる知識婦人の矯激と軽薄から彼女を救つたのは、質実剛直な両親の気風だつたと私は確信する。
 たびたび私は彼女の自尊心の現れかたについて観察した。多少意地のわるい見方かも知れぬが、彼女は決して故らに謙遜したり、うかつに自己吹聴をしたりせぬだけの自負心をもつてゐた。社会的地位の上下などで相手を遇するやうなことは絶対にせず、女中には必ず「さん」づけをするといふやうなやり方にもそれが現れてゐた。夫の私などに対しても、世間の多くの細君よりも丁寧な言葉遣ひをしたが、これも、それによつて、女としての品位を保たうとする心掛けのやうにみえた。
 ところで、彼女の自尊心を甚だ傷けるやうなことが、家庭の雑用のなかには多い。それをやることがさうなのではなく、それがうまくやれないことがさうなのである。手先が器用でないといふ云ひ逃れをしばしば聞いたけれども、それよりも、娘時代になんでもなくさういふ仕事の訓練を受けてしまはなかつたからである。
 この種のことはうまくやれなくつたつてそんなに不名誉にならぬといふやうな考へは、或は結婚当初にはあつたかもしれぬが、だんだんさうでないことがわかつて来たとみえて、よほどいまいましさうであり、別に色にはみせないが、一生懸命の様子でそれが察せられた。それをまた、私が、時によるとそばから、そんな簡単な、女ならちよこちよこつと眼をつぶつてゐても出来るやうなことを、さう大童《おほわらは》になつてなどと口を出す。冷やかすだけならいゝが、多少は小言めく。いや味になることすらある。辛《つ》らかつたらうと思ふ。が、このことばかりは、彼女が、日記のなかで、しみじみ後悔の言葉として書き綴つてゐる。

 今、私のそばにその彼女がゐなくなつたといふことは、彼女が実は、私のために、娘たちのために、すべてをしてゐたといふことをはつきり私に教へるのである。
 彼女がどつと寝ついてから、私たち一家のものは、それこそ多少の不自由を忍ばなければならなかつたが、しかし、彼女がまだそこにゐるといふだけで、つまり、何ひとつ相談をしたり指図を受けたりしなくても、彼女の姿をそこに見、彼女の心をそこに感じるだけで、十分に「家」はその機能を働かし続けてゐたのである。ところが、彼女の死は、彼女の生命の終りであるのみならず、この「家」の永久の沈黙とでも云ひたいやうな、底知れぬ打撃を見舞つた。私は幼い二人の娘を前にして、彼女らの母の面影をはかなく手ぐりよせ、言葉しづかに云ひきかせる――
「お前たちは、お母さんが、かうなつてほしいと思つてゐたやうな娘にならなければいけないよ。それがお前たちのお母さんへのつとめだ」
 私は、少しの不安もなく、かう云ふことができた。

 去年の暮、彼女はもうすでに、少からぬ疲れをみせ、風邪をこじらせたと云つて、咳をしつゞけてゐたが、かの十二月八日のラジオの前で、そこへ起きて行つた私を見すゑながら、やゝ興奮した調子で、「たうとうはじまりましたわ。ラジオ、お聴きになつたら」と云つた。
 二月にはもう床から起きあがれなくなつてゐた。マレイ沖でプリンス・オヴ・ウェールスが沈められたあの報道を聞いて彼女は涙を流した。
 熱がいくら高くても、新聞にだけは自分で眼を通さなければ承知しなかつたといふことを、後から看護婦が白状した。私がそれを止めてゐたからである。呼吸《いき》を引きとるその日も、しびれの来た手を重たげに扱ひながら、朝の化粧をすませ、新聞の一面へざつと眼を配る動作を私は黙つて見戍《みまも》つてゐた。
 ソロモン海戦の華々しいニュースは、彼女の死の床の上に伝はつたのであつた。
 五十日祭の当日、私は、ひとり書斎で親戚の集るのを待つ間、開け放された窓からぼんやり秋日和の庭を眺めてゐた。柄にもなく、こんな歌のやうなものがひとりでに出来た。

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えびすらの
稜威高しと仰ぐ日を
待たで去りにし
わが妻あはれ

妻逝きて早や五十日
木犀の
かをれる庭も荒野のごとし
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 もうなにも書くことがないやうな気もするが、日記をめくつてゐると、また言ひたいことが出て来るかも知れない。

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大正十年九月十六日
今日は十五夜だ。
御飯がすんだ頃月が登りきつた。黄色い光を含んだ灰銀色の雲が空の方にちらばつてゐた。月は円くて――当り前だが――よく光つた。が、磨いたやうとは云へなかつた。時々雲がその上を渡つた。私は何かしら祈りたい気持になつた。私は黙つて手を合せた。母が手も洗はないでをがむなんて、と笑つた。私は見られたと思つて一寸変な気がしたが、やはり祈りたい気持は私の全身を奇異なもので充した。私は手を洗つた。口をすゝいだ。そして裏口で手を合せた。
月を見つめた。
何を祈りたいのか、私は知らなかつた。
私は考へながら
「どうぞいつまでも永久にわかくゐられますやうに。どうぞ強く生きられますやうに。どうぞ私のなかにある芸術のつぼみが大きく生々とひらきますやうに。」
と、口の中でくり返した。
けれども、祈りたいものは、最も祈りたいものは、こんなことではないことを私は知つてゐた。
けれどもそれが何であつたかは、私はたうとうつかまへられなかつた。
さびしい気がした。
十二時過ぎ。
何といふさびしさだ。今から、十九年十一ヶ月といふ子供の時代から、そんなにさびしがつていゝものか。いゝもわるいもない。さびしいんだからしかたがない。

昭和十七年七月二十七日
つよきものわけて心をひく日なり満庭を灼く日に見とれをり
夜、月光。

七月二十八日
木々の葉はあやしく黄なる花となりぬ曙の日の雲をやぶれば

翼賛会をやめてほつとした彼の顔。
ご苦労さま。そして、私がこんな風で、なんにもできなかつたこと、ごめんなさい。のうのうと休ませてあげたい。痛いところがあれ
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