いぜい、栄養としてのみ摂取されるに過ぎなかつた。
 道徳は批判に終り、知識は答弁のために用意され、美は自虐的努力と並んだ。心理の分裂と共に、観念と生活との遊離が著しい現象であつたにも拘はらず、誰もがそれに気づかなかつた。
 高邁な思念は弊衣破帽にしか宿らぬと断じたのはまだよいとして、茶の湯や活け花が有閑の手すさびに堕し、何々至上主義といふやうな夢遊病的人生観の横行を新しい世代は歓迎した。
 読書は「教養」のための殆ど唯一の手段と考へられた。考へられたばかりではなく、それは事実であつた。家庭と学校は、子弟の欲するところのものを与へ得ず、特に、何を欲せしむべきかを知らなかつた。雑誌の氾濫は一にその結果であり、活字は活字だけの力で、人間の精神と生活とを支配しようとした。
 教養は新しい「たしなみ」でなければならなかつたのである。さう理解しつゝも、なほかつ修行の場と方法とを持たなかつた近代日本の社会は、あらゆる方面で、かくあるべき日本人の姿を見失はしめた。典型の消滅は、単に、女性ばかりでなく、まつたく青年の不幸であつた。
 かくして、恋愛は情事の色を帯び、結婚は無条件の就職に似たものとなつた。青春は、おのづから輝きを失ひ、夢はいたづらにさびしいのである。
 第三に「女のたしなみ」のうち、わけてもこれからの女性が身につけなければならないのは、家庭の雑用と呼ばれてゐる細々とした仕事を、最も能率的に処理し、しかも、それが目的ではなく、より大きな目的を達するための手段であるといふ、云はゞ綽々たる余裕を保つ技術的錬磨である。
 こゝで注意しなければならないのは、この「目的ではない」といふ意味についてである。それは、機械の整備運転が、そのこと自身、例へば生産活動の領域に於て、純然たる目的とは云ひ難いといふのと同様である。しかし、それは、手段としては絶対なものであり、それなくして生産はあり得ないやうな重大性をもつものである。
 更に、考ふべきは、家事といふことのなかに、出産、育児を含むことである。これは、もはや「目的」と云つてもいゝほどの、大多数の女性にとつて、一種神聖な最後的役割である。
「子供にかまける」毎の、扮《な》り振《ふ》りかまはぬ姿こそ、清く尊いものと云へば云へるであらう。だが、こゝに、私は日本人の不思議な凝結心理をみて、聊か疑問を抱く。いくらあつても足りぬ時間といふのはわかるにはわかるけれども、いくらあつても足りぬやうな時間と労力の使ひ方をしてゐれば、それは、一向褒めたことではないのである。直接に子供のために使ふ時間と労力だけが、子供のためになるのではないといふことを、なぜもつと考へないのであらう。子供のためといふ名分があるだけに、私はとりわけ、さういふ母親に対して感謝をこめた希望を述べたくなる。
「かまける」ことから脱け出る工夫と、その修業こそ、女の「たしなみ」の大切な一項目である。
 何ごとにも「かまけぬ」主婦は、家庭生活を明朗にし、力づける。それがための準備は、ほんたうは、母の膝の上からなされねばならぬと思ふ。しかし、もの心づく娘時代からでも決して遅くはない。
 第四に、いはゆる「高い教養」が女性に何をつけ加へるかといふ問題である。正しい意味の深い教養は、たしかに、心を豊かにし、表情に磨きをかけ、趣味をよくし、智的な作業にも適する女性を作る。しかし、若し、高い教養なるものが、今日までのやうに、学校教育乃至は読書にのみよつて獲られたものを指すのであつたら、それは一般にも云はれるやうに、女性をして、女性の魅力の大部分を失はしめる結果に陥り易い。なぜなら、それは偏食に類するものであり、精神的にビタミンXの欠乏を来し、男子と肩を並べるつもりで、いつの間にか同性の群から落伍してゐるからである。
 男は「男」を磨くことによつて、人間的な高さを矜《ほこ》り得るのである。女も亦「女」を磨くことによつてのみ、人間の位《くらゐ》があがるのだといふことに気づかねばならぬ。
「女」を磨くとは、女の理想的「表現」をもつて、即ち最も洗煉された「女らしさ」によつて人に親愛畏敬の念を起させることである。
「高い教養」がかういふことに役立つなら、それは大いに身につけるがよろしい。しかも、それは、西欧的教養とは別個な伝統の上に築かれた、日本的「たしなみ」の会得と修練なしには、絶対に日本の女のもつ「高い教養」とは云ひ得ぬであらう。
 第五に「たしなみ」を行儀作法とのみ考へるのは大きな間違ひだといふことは云ふまでもないが、特に、女のたしなみとして、私は強靭な肉体の自由な操作と、敢為な気性のしなやかな表現とを新しい時代に求めたいと思ふ。つまり、女性的魅力に凜冽たる一面を必ず附け加へたいのである。
 これはなにも戦時だからと云ふばかりではない。そしてまた、これは決して男の領域へ足を踏み込むことでもない。
 逆に、女は、真に男らしさ男の前では、おのづから「しをらしく」なるものだといふ微妙な心理を忘れてはならぬ。異性間の問題については、あまり立ち入つて云ふべき機会ではないから、これくらゐにしておくが、要するに「武」の精神は、古来、日本婦道の健全な発展のうちには、いろいろなすがたで示されて来てゐるのである。「しとやか」といふことは女性の威儀に外ならぬ。
 男子の側に於て「武の道」が顧みられなくなつた時代、女子の側でのみこれが守られてゐる道理はない。
 しかし、今日、日本の文化は、再び伝統の光被によつて、その本来の面目を取戻さうとしてゐるのである。
「貞節」といふことも、女性の凜々しい一面を発揮したものであるが、それが日常の言動となつて如何に現はされるかといふことを、最近、人々はあまり等閑に附してゐる。日本の女性の「たしなみ」は、こゝにもひとつの大きな課題をもつてゐたのである。見知らぬ男と口を利くその利き方において、女の「たしなみ」に遺憾なくあらはれ、電車の乗り降りひとつで、その女の「貞潔」の程度を知ることができる。不必要な媚態とあまりに繊弱な風姿とは、それだけで既に、備へなき精神の虚を暴露するものである。
 さて、かう述べて来ると、私たちは、かの封建時代の女大学式婦道をそのまゝ礼讃するかのやうに思はれるかも知れぬ。
 決してさうではない。
 封建時代の、仏教乃至儒教の影響を受けた女性観には、多分の非日本的性格と家族制度の末紀的現象を反映した、女性を汚れあるものとし、或は度し難きものとする傾向が見られないことはない。
 女三従説の如きは、趣旨はともかく、表現が寧ろ穏かでないとさへ思はれる。
 事実、男尊女卑は日本の思想ではなく、夫唱婦随の妙諦は、夫の責任と妻の信頼から生れるものであることを、日本の男と女とほど、よくこれを知つてゐるものはないのである。
 嘗てフランスの詩人ジャン・コクトオが、接客の儀礼を鮮やかに身につけた日本婦人の多くをみてこれを「奉仕の女王」と呼んだ。
「女王」の尊称を奉つたのは、威厳、鷹揚さ、気品といふやうなものを特に感じとつたからであらう。言葉はもちろん洒落に過ぎぬけれども、彼の云ひたかつたことはよくわかる気がする。
 服従が若し日本の女の美徳であるとすれば、その服従は、男に委せるべきものを委せる果断と没我の勇気から来るものであると、私は信ずる。それゆゑに、女の服従は男の決意を固めさせ、行為の責任を自覚せしめる力となるのである。
 私は、命ずれば音の響きに応ずるやうな「諾」の返事ほど、夫の心に妻を凜々しく感じさせるものはないと思ふ。まことに、日本の家の深々とした重みである。
 以上で、私たち、即ち私と亡妻との合作になる女性訓を終ることにする。
 家内は幽明を隔てた界から、この原稿を嘗て屡※[#二の字点、1−2−22]さうしたやうに、私に読み返してみせるであらう。
 こゝをかうしたらといふ意見も出すであらう。私は笑つて、そのまゝでよろしいと答へる。彼女は従ふであらう。
 あゝ、しかし、彼女の眼に涙が溜つてゐはせぬか。
 私は、堪へ難い彼女への憐憫と作家としての良心にかけて、この一文を敢へて発表する。
 読者は、どうぞ、私の真意を汲んで、素直にこの愚かな告白を聴いていたゞきたい。



底本:「岸田國士全集26」岩波書店
   1991(平成3)年10月8日発行
底本の親本:「婦人公論 第二十八年新年号、二月号」
   1943(昭和18)年1月1日、2月1日発行
初出:「婦人公論 第二十八年新年号、二月号」
   1943(昭和18)年1月1日、2月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年3月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング