、私が否応なしに聞かされたといふことは、これこそ私にとつて例へやうのない事件である。
そこには、夫たる私が知つてはならぬことが記されてゐたであらうか。私は敢へて云ふ。知つてはならぬことは何ひとつ記されてはゐない。しかし知らなくてもよいことが、そここゝにいつぱい書きちらしてあつた。
私は、はじめ、なにか取り返しのつかぬことをした、といふ気がした。私は読むべからざるものを読んだといふ、悔恨に似た苦味を胸ふかく味つた。だが、すこし落ちついて考へてみると、彼女は、特にそれを意識してではないにしろ、私の手に平然として自分一人の過去の歴史を残して行つたのである。それは、彼女が、私との結婚に際しても、なほかつ葬り去るに忍びない歴史として、筐底に納めたまゝ私の許に運んで来たといふことである。
かくて彼女は、彼女のすべてを私に示し、私に与へた。今、私は彼女の苦しみを、悲しみをわがものとすることができた。彼女の、終生追ひ求め、しかもそれがはかない幻影にすぎなかつたものを、私はやうやくにしてそれと察することができた。日記を通じて、口癖の「淋しさ」は、そこにあり、その淋しさのゆゑに、彼女は身をも心をも瘠
前へ
次へ
全28ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング