としては、愛情の表現について、やゝ懐疑的であつたと思はれるふしがあるけれども、気分にめづらしく晴曇なく、娘たちにとつてこの上もない清らかな「母」の映像を残して行つたに違ひないといふこと、これだけである。

 青春に酔ひ、天才に魅せられ、かくあるべき人生を幻に描いてゐたこの薄命な一人の女の生涯を、私は、それが私の妻であつたがために悲しみ、憐れむものである。
 時代と環境によつて導かれた女性の「教養」の型について、私は今しみじみと「犠牲」といふ言葉に思ひ及んでゐる。
 十五年間、家庭を営むための惨憺たる努力の跡は、すべて彼女としては、日常茶飯の技術の上にあつたといふこと、それは綿密なノートだけではどうにもならぬ感覚の訓練と伝統の反射作用とでも云ふべきものであつたことである。従つてそれはもう絶望的と考へられるほど瑣末な神経の巨大な浪費を意味してゐた。病弱な肉体の過重な負担であつたことは想像に難くない。
 彼女の憩ひと自由とは寧ろ精神の散歩のなかにあつた。しかも、孤独な散歩である。
 地上の幸福は遂に訪れるべくもなかつた。宗教を求めて信仰をかち得ず、自尊の蔭に涼風をあつめて、静かに死を待つた一時を思ふと、私は、泣かざらんとして泣かざるを得ぬのである。
 私は亡き妻の日記が私に教へるところに従ひ、世の若き女性に愬へる。
 日本の女としての、真の幸福とはなにかといふことを、今こそはつきりと自覚しなければならぬ。
 それは第一に、日本の男を男らしく作りあげるといふことにあると私たちは信じる。妻として夫を、母として息子を、主婦として世間の男たちを。
 第二に、それがためには、女は女の本性を最高度に発揮することである。古来、女の「たしなみ」と云はれたものは、日本の歴史が作りだした理想の女の魅力ある映像であつた。
「たしなみ」が「教養」といふ言葉に変つたとき「たしなみ」のもつ「道」としての、即ち、心身一如の訓練による生活の技術的体得が忘れられたのである。
 男子の場合もまつたく同様である。
「たしなみ」は、道徳と技術との綜合の上に描かれた人間生活の軌範であり、また、それぞれの社会的、性的、年齢的条件に応じて示される力と美との活きたすがたであり、信念と叡智と品位との最も巧まざる表象である。
 近代の「教養」も亦、結果としてこれと等しきものを目ざしてゐながら、それは、衣裳の如く身に纏ひ、せ
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