。しかも、以前に比べて、これらの作品は、ずつと文学的であり、且つ、「本格的」であることにも注意しないわけに行かない。これはつまり、既成の俳優(新劇を含めて)には絶対に演れないものを含んでゐるといふ意味であるが、以前にはそれが文学的すぎるといふだけの理由で、上演不向のレツテルを貼られたものが、今日では、逆に、本格的すぎるために、本格的な素質をもたない俳優では、なんとしても効果が挙げられないのだと云ひきれるのである。それゆえ、こゝに、意識せざる妙な現象が起りつゝある。
劇団側がたまたま自信をもつて取りあげる脚本は、主として、人物表現にごまかしのきく西洋劇、せりふの単純な歴史劇、乃至は無知識階級の登場する劇、単なる模倣が可笑し味を与へる方言劇、緊密な劇的効果を除外した小説の劇化、等なのである。
方言を以て書かれた戯曲は、作者としては別に劇団の意を迎へるつもりで書いたのではない。これは、私の考へでは、作者が、戯曲の言葉を探すに当つて、やはり、「自分の言葉」に頼るより外はないといふ発見に到達した結果であつて、その証拠に、どの方言劇も、作者の身につけた「方言」によつて組立てられてゐるのである。
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