が早く唱へられすぎて、新劇は発育不良のまゝ残された。現在、プロレタリア演劇は、発展的リアリズムなどゝいふ言葉を使つてゐるが、広い意味でのリアリズムが、わが国では、文学にも演劇にも、まだ根をおろしてゐないのである。これは、もともと、現代の生活が、リアリズムの精神の上に導かれてゐないといふ遥かな原因があるからであらう。徳田秋声が光つてゐるのもそのためであり、真船豊が新しく見えるのもやはり、そのためである。
 さういふことを考へた上で、わが戯曲壇の今日を、私は、悲観的に評価するものゝ味方はしないつもりである。

 が、それにしても、劇文学がまつたく舞台をはなれて進化の道を辿るといふことは、凡そ例外的な事実であつて、現在の演劇をこのまゝ赴くところに赴かせたら、新作家は、これに妥協して中途半端な職業作者になるか、或は、劇作の筆を擲つか、さもなければ、十年一日の如く、「雑誌戯曲」の無理な製作を続けて、辛うじて文壇の仲間入りをすることに甘んじなければなるまい。近頃では、その「雑誌戯曲」に頗る見るべきものが現はれはじめたのを私は面白いことだと思ふ一方、この作家たちが、どこまで頑張るかをみるのが楽しみだ
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