れが、戯曲であるといふことはむろん考慮に入れなければならぬ。早く云へば、近頃は、戯曲が専門化し、小説には書けないものが書いてあり、しかも、それがやはり文学であるといふところから、小説家にも漠然と表現の魅力が感じられるといふこともある。が、それよりも、戯曲がさういふ風に専門化し、ある方向に極度の探究が行はれた結果、一般に文学的創作の態度として、「観察」の面が飛び抜けて豊富になつて来た。客観的な人間描写の努力が、これを要求したとも云へ、対話といふ形式に生命感を盛る根本的な方法として、「語られる言葉」のイメージを適確に捕捉する修業を積んだからだとも云へると思ふ。対話そのものが、肉体をもちはじめたといふことは、たしかに、日本の劇文学としては空前な現象であり、小説家がそこになにかしら、興味を感じるのも、あながち読者としてばかりではないのであらう。
観念の深化といふ現代文学の――殊に散文の目指してゐる目標に、戯曲もある程度まで引きづられて、劇文学本来の魅力を失ひかけたのは欧羅巴ではつひ最近のことであるが、日本には、幸か不幸かさういふ時代はまだ来てゐない。それと同時に、リアリズムの放棄といふ合言葉
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