主義と見えるのはそのためであらうが、日本在来の自然主義的手法をもつてしては到底現はし得ない一種の暗示的効果がそこにあることを注意すべきである。この特色は、劇文学の進化途上に於て、恐らく、重大なエポオクをなすもので、観念のリズミカルな抑揚を捉へる表現技術が、やうやく、わが国の戯曲家によつて意識的にマスタアされつゝあることを証拠だてるのである。

 今日の劇壇は、かゝる新作家の業績に対してまつたく無関係であるのみならず、これを一概に「文学性」として斥けるところに、大いなる時代的逆行があり、オーソドツクスへの軽薄な蔑視があり、新劇発展のための致命的障碍があるのである。が、これに反して、文壇の一部は、これらの作家を通じて、戯曲への新たな関心を向けはじめた。
 一面に於て、今日の小説は、たしかに、今日の戯曲よりも進んだところを歩いてゐる。しかし、戯曲家の若干が到達し得たある一点のみは、これまでの小説家が、恐らく成し遂げ得てゐないものを成し遂げたのである。現に、同時代の小説家が、それらの戯曲を読んで、「おや、こいつは面白いことをやつてるぞ」と思ふことが自然であるやうな例を私は屡々見た。その場合、そ
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