しろと眼顔で知らせてゐるのである。
 当今の若い作家で、それぞれ新劇団に関係してゐる人々は、多少とも、かういふ眼附を自分の周囲に感じて、創作の手が鈍つてゐることであらう。私は、新劇俳優なるものの運命について、常に身につまされて慄然たるを覚えると同時に、若い劇作家の、文学と舞台との板挟みに会つて苦悶する状態を見るに忍びないのである。

 かういふ雰囲気のなかで、戯曲が真にその本質的な価値を高めて行くには、どうしても、現在の「新劇」に頼つてはゐられないといふ矛盾が生じるのである。現に、さういふ覚悟をもつてデビユウした若干の新作家が、この一二年、劇文壇を希望ある方向に導いた。これら一群の作家は、文学としての戯曲を、極めて限られた範囲に於て完成する努力を今なほ続けてゐるやうに見える。つまり、我が国の劇文学が、嘗てそこを経過したと信じられ、実は、上滑りをしたに過ぎなかつた近代写実主義の精神を、やうやく探りあてたのである。しかも、甚だ興味あることは、一時代前のリアリズムが、こゝでは、ネオ・ロマンチスムをくゞりぬけた想念喚起《エヴオカシヨン》の色に染めかへられようとしてゐるといふことである。一見些末
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