これらの作者は、少くとも、「自分の標準語」なるものが、「語られる」場合のギゴチなさ、魅力のなさ、性格づけの困難さを痛感してゐるのである。翻訳劇の大部分が犯した罪は、俳優に「翻訳的標準語」を語らせたことにある。程度の相違こそあれ、従来の劇作家は、登場人物の誰彼れに、差別のない、又は、類型に過ぎない一種の標準語をしやべらせたことから、対話の月並さ、生彩の乏しさ、引いて、現実感の稀薄さを生んだのである。方言の駆使は、たしかにこの弱点のいくらかを救つたと云へるだらう。
 しかし、活字としての方言は、正確にこれを現はすことも、読むこともできないといふ厄介さがある。私などは、さういふ厄介さを我慢して、人物の声の調子や、アクセントまで想像して読むから、よく書けてゐる場合は十分楽しめるのであるが、批評家は、しばしば、せつかちで我儘だから、これに文句をつけるのである。作者は、すると、また迷ひはじめる。さういふ例を私はたくさん知つてゐる。が、方言の駆使が自由にできる作者は、もう既に、標準語の欠陥を埋める用意ができてゐると云つていゝ。
 阪中正夫、真船豊、小山祐士、田中千禾夫等は、そろそろ、この方向へ眼を向
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