主義と見えるのはそのためであらうが、日本在来の自然主義的手法をもつてしては到底現はし得ない一種の暗示的効果がそこにあることを注意すべきである。この特色は、劇文学の進化途上に於て、恐らく、重大なエポオクをなすもので、観念のリズミカルな抑揚を捉へる表現技術が、やうやく、わが国の戯曲家によつて意識的にマスタアされつゝあることを証拠だてるのである。

 今日の劇壇は、かゝる新作家の業績に対してまつたく無関係であるのみならず、これを一概に「文学性」として斥けるところに、大いなる時代的逆行があり、オーソドツクスへの軽薄な蔑視があり、新劇発展のための致命的障碍があるのである。が、これに反して、文壇の一部は、これらの作家を通じて、戯曲への新たな関心を向けはじめた。
 一面に於て、今日の小説は、たしかに、今日の戯曲よりも進んだところを歩いてゐる。しかし、戯曲家の若干が到達し得たある一点のみは、これまでの小説家が、恐らく成し遂げ得てゐないものを成し遂げたのである。現に、同時代の小説家が、それらの戯曲を読んで、「おや、こいつは面白いことをやつてるぞ」と思ふことが自然であるやうな例を私は屡々見た。その場合、それが、戯曲であるといふことはむろん考慮に入れなければならぬ。早く云へば、近頃は、戯曲が専門化し、小説には書けないものが書いてあり、しかも、それがやはり文学であるといふところから、小説家にも漠然と表現の魅力が感じられるといふこともある。が、それよりも、戯曲がさういふ風に専門化し、ある方向に極度の探究が行はれた結果、一般に文学的創作の態度として、「観察」の面が飛び抜けて豊富になつて来た。客観的な人間描写の努力が、これを要求したとも云へ、対話といふ形式に生命感を盛る根本的な方法として、「語られる言葉」のイメージを適確に捕捉する修業を積んだからだとも云へると思ふ。対話そのものが、肉体をもちはじめたといふことは、たしかに、日本の劇文学としては空前な現象であり、小説家がそこになにかしら、興味を感じるのも、あながち読者としてばかりではないのであらう。
 観念の深化といふ現代文学の――殊に散文の目指してゐる目標に、戯曲もある程度まで引きづられて、劇文学本来の魅力を失ひかけたのは欧羅巴ではつひ最近のことであるが、日本には、幸か不幸かさういふ時代はまだ来てゐない。それと同時に、リアリズムの放棄といふ合言葉
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング