げようとする一段階にある演劇形態なのである。一方が一方の犠牲になつてはたまらぬ。たまたま、これらの俳優が、古典的な、定評のある傑作をやる場合がある。その方が面白いとは限らぬが、いくぶん得をするチヤンスが大きいと云へないことはない。さうだからと云つて、若い同僚作家を軽視するやうなことがあつたら大間違ひだ。第三者から観れば、古典的傑作なぞ、新劇俳優にやつて貰ひたくはなく、それが見てゐられたとすれば、いろんな割引をしてゞある。さういふことを、つひ当事者は忘れ、或は気がつかず、「演《だ》し物」次第で観客が来ると思ひ込み、その結果が自分たちの手柄になるとあれば、もう、彼等は、進歩の道を絶たれたことになる。若い作家に今度は註文をつける。今時そんなものはないといふかも知れないが、暗にそれをやつてゐるのである。つまり、傑作の真似をしろ、文学はどうでもいゝ、舞台性を重んじろ、どんな役者にでもできるものを書け、いや、なるべく素人がやりこなせるやうな脚本で、見た目には大がゝりで、問題がはつきりつかめ、誰の思想でもいいから流行思想を折り込み、第一に変つた芝居だといふ印象を与へるやうな脚本を取つ替へ引つかへ提供しろと眼顔で知らせてゐるのである。
当今の若い作家で、それぞれ新劇団に関係してゐる人々は、多少とも、かういふ眼附を自分の周囲に感じて、創作の手が鈍つてゐることであらう。私は、新劇俳優なるものの運命について、常に身につまされて慄然たるを覚えると同時に、若い劇作家の、文学と舞台との板挟みに会つて苦悶する状態を見るに忍びないのである。
かういふ雰囲気のなかで、戯曲が真にその本質的な価値を高めて行くには、どうしても、現在の「新劇」に頼つてはゐられないといふ矛盾が生じるのである。現に、さういふ覚悟をもつてデビユウした若干の新作家が、この一二年、劇文壇を希望ある方向に導いた。これら一群の作家は、文学としての戯曲を、極めて限られた範囲に於て完成する努力を今なほ続けてゐるやうに見える。つまり、我が国の劇文学が、嘗てそこを経過したと信じられ、実は、上滑りをしたに過ぎなかつた近代写実主義の精神を、やうやく探りあてたのである。しかも、甚だ興味あることは、一時代前のリアリズムが、こゝでは、ネオ・ロマンチスムをくゞりぬけた想念喚起《エヴオカシヨン》の色に染めかへられようとしてゐるといふことである。一見些末
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