が早く唱へられすぎて、新劇は発育不良のまゝ残された。現在、プロレタリア演劇は、発展的リアリズムなどゝいふ言葉を使つてゐるが、広い意味でのリアリズムが、わが国では、文学にも演劇にも、まだ根をおろしてゐないのである。これは、もともと、現代の生活が、リアリズムの精神の上に導かれてゐないといふ遥かな原因があるからであらう。徳田秋声が光つてゐるのもそのためであり、真船豊が新しく見えるのもやはり、そのためである。
 さういふことを考へた上で、わが戯曲壇の今日を、私は、悲観的に評価するものゝ味方はしないつもりである。

 が、それにしても、劇文学がまつたく舞台をはなれて進化の道を辿るといふことは、凡そ例外的な事実であつて、現在の演劇をこのまゝ赴くところに赴かせたら、新作家は、これに妥協して中途半端な職業作者になるか、或は、劇作の筆を擲つか、さもなければ、十年一日の如く、「雑誌戯曲」の無理な製作を続けて、辛うじて文壇の仲間入りをすることに甘んじなければなるまい。近頃では、その「雑誌戯曲」に頗る見るべきものが現はれはじめたのを私は面白いことだと思ふ一方、この作家たちが、どこまで頑張るかをみるのが楽しみだ。しかも、以前に比べて、これらの作品は、ずつと文学的であり、且つ、「本格的」であることにも注意しないわけに行かない。これはつまり、既成の俳優(新劇を含めて)には絶対に演れないものを含んでゐるといふ意味であるが、以前にはそれが文学的すぎるといふだけの理由で、上演不向のレツテルを貼られたものが、今日では、逆に、本格的すぎるために、本格的な素質をもたない俳優では、なんとしても効果が挙げられないのだと云ひきれるのである。それゆえ、こゝに、意識せざる妙な現象が起りつゝある。
 劇団側がたまたま自信をもつて取りあげる脚本は、主として、人物表現にごまかしのきく西洋劇、せりふの単純な歴史劇、乃至は無知識階級の登場する劇、単なる模倣が可笑し味を与へる方言劇、緊密な劇的効果を除外した小説の劇化、等なのである。
 方言を以て書かれた戯曲は、作者としては別に劇団の意を迎へるつもりで書いたのではない。これは、私の考へでは、作者が、戯曲の言葉を探すに当つて、やはり、「自分の言葉」に頼るより外はないといふ発見に到達した結果であつて、その証拠に、どの方言劇も、作者の身につけた「方言」によつて組立てられてゐるのである。
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング