表れなりとすることは自由であるが、その美徳が、実は、曲者なのである。またこれを風土的に解釈することも勝手である。が、その自覚のみからは何ものも育たないのである。
 少くとも、かういふ民族的性格との闘ひを、一部の文学者が試みようとしてゐることは事実である。彼等が、それを意識するとしないとは別問題である。そのうちのあるものは、一見、民族的自負を強調するかの如く見えるため、これを反動的と断ずるのは、大きな誤りである。彼等は、正確にいへば日本を語ることに自信をもちだしたゞけである。なぜ、さうなつたか? 自分の眼に、はつきり日本人といふものが映り出したからである。民族の強味と弱味とを同時に自分のうちに感じだしたからである。彼等は、それをまた、現代日本文学のなかに発見したのである。

       三

 そこで例へば、文学者の「日本民族の力を信ぜよ」といふ表現のなかには、「現在の文化的危機を必ずしも世界的[#「世界的」に傍点]にでなくてよろしいから、一時も早く、そして先づ、日本的[#「日本的」に傍点]に救へるだけは救はう」といふ決意が示されてゐるものと解すべきであるが、さう解してさへもこれを昨今
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