マニズムが更に頭と尻尾との噛み合ひに終つた形である。これが、民族対世界の奇怪な同士討だとしたら、誰が喝采などしてくれよう。
 軍部と議会との渡り合ひを昨日今日われ/\はどんな気持で眺めたであらう。どつちかへ加担するものがあつたら、私はとくとその理由を訊ねたい。国民は単なる論理やジエスチユアに迷はされてはならぬ。真実を語るのはたゞ、己れを無にした精神の火花だけである。
 こゝで引合ひに出すのは、聊か「月遅れ」に違ひないが、横光利一氏帰朝第一回作品「厨房日記」を再読し、これに対する諸家の批評をのぞいて、私は、感慨に耽つた。これは作者自身のいふ「現代日本の知性」が欧羅巴的なものに立ち向ふひとつのポーズを鮮かに描いてみせた作品の好適例であるが、私は敢てこの皮肉な作品の意識的な構図を分析しようとは思はない。なぜなら、それはもはや横光風ともいふべき詩学の究極を示すに過ぎないのであつて、それよりも、私がこゝで考へたいのは、同氏をしてかゝる主題を選ばせた動機が、親しく見聞した欧羅巴の心理にあるのではなくて、帰朝と同時に触れ得た文壇的雰囲気にあるのだといふことである。そして横光氏の例の鋭い感受性はその雰
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