た。そのうしろから、知り合ひらしい中年過ぎの女がついて来て、たつた今、その女の子が池へ落ちて、手だけ水の上へ出してゐるのを引きあげてやつたのだといふ話をするのですが、私には、むろん、言葉がところどころしかわからず、やつとそれだけの意味を察したのであります。
茶店の婆さんは、――多分孫娘でありませう――その女の子の着物を手早くぬがせながら、小声で二こと三こと小言を浴せ、助けてくれた女に礼を云ひ、盥を持ち出して釜の湯をあけ、女の子に行水を使はせるのでありますが、その、うろたへもせず、邪慳にもならず、手まめにひとつひとつ、なすべきことを処理して行く態度に、私は感服しながら見入つてをりました。
婆さんは、まだ泣きやまない女の子を裸のまゝ店の奥に起たせ、着物を箪笥から出してやります。
その間、助けてくれた女と、平生通りの会話を続けてゐます。私はその調子の巧まない朗かさに興を覚え、耳をぢつとすましてゐました。
話は、さつきそこにゐた男の客のことらしく、なんでも、戦地から帰つたばかりで、今日、東京からわざわざ出かけて来て、戦死した中隊長の墓参りをしたのだといふやうなことでありました。それからまた、近頃、ラヂオ体操ばやりで、年寄りまでが妙な恰好をして体操をするが、あれはちよつとどうかといふやうな話です。
相手の女は、娘の命を助けたご褒美に、氷水二杯を振舞はれ、これは、馴れないことゝみえ、やゝ照れながら、もう一度、娘のあぶなかつた話を繰り返しました。
これだけの話であります。
たゞこれだけの話であります。が、この情景は、観るのと聞くのとではよほど違ひませうけれども、しかし、私のその場で感じ、今もなほ心のなかに刻みつけられてゐる印象は、まつたく、懐しく快いものであります。
こゝには何ひとつ教訓らしいものはありません。おそらく頭の下るやうなところはどこにもありません。しかもなほこれらの人物一人一人のうちに、私は愛すべき人間のこゝろをしみじみと感じるのであります。かういふ例は、決して、珍しいといふのではありません。たゞ、これが、社会の目立たない部分にしか見当らないといふことであります。素朴な民衆の自然なたしなみがそこにあるといふ意味でです。そしてそれが一旅人たる私を知らず識らず抱き込むのだとすれば、祖先を異にする国民と国民との交りも、かういふ共感の上に立たなければ、ほんた
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