はなりません。正しい意味に於る「軍隊的なもの」は、国防国家にとつて、欠くべからざるものであります。なぜなら、軍隊ほど、秩序の力と美しさを尊ぶものはないからであります。そしてそこには、文化を形づくる要素が、偶然、四つとも具つてゐるのです。即ち、倫理性、科学性、政治性、それから芸術性がそれです。
国防国家といつても、必ずしも国全体を軍隊化することではありませんけれども、ある意味で「軍隊的に」組織づけ、秩序立て、訓練し、動かしていくことは、絶対に必要であります。
申すまでもなく、戦争と文化とは相容れないやうに考へるのは、戦争が侵略のための戦争であり、文化が消費と装飾の面に結びつくと考へる旧い観念であります。
今日、日本が目指してゐる高度国防国家建設とは、兵備そのものを第一義とする侵略的武装国家を理想とするものでは決してありません。あくまでも道義的な国家目的を達成するに当つて、已むを得ず排除すべき障碍を予想しての軍備と、いはゆる東亜共栄圏を確立するための経済的基礎と、後進諸民族指導の実権を他に譲らないだけのすぐれた文化的能力とを完全に蓄積することに外ならぬのであります。
こゝで、従来の、西洋流平和主義に対し、われわれ日本人として、厳しい批判を加へておかなければなりません。
元来、国家の存立といふものは、個人の存在と、その根本に於て意味が違ふことを、はつきりわれわれの道徳は教へてをります。個人は、その生命に自然の限界があり、生命の尊さにも亦おのづから制約があるのであります。人は数々の理由によつて、みづから死を択ぶことすらあります。然るに、わが国は、いかなることがあつても滅んではならず、また、いかなる困難があつても、栄えねばならぬ絶対無上の生命が籠つてゐるのであります。そのため「七生報国」は、日本国民の血液にひそむ大悲願なのであります。
こゝに個人の倫理と、国家の倫理との微妙な相違が生じます。道義日本の正道は、饑ゑて死を待つところには断じてないのであります。
さて、いま私が静かに過去、現在、未来を考へてみますと、わが日本のいろいろな姿が目に浮んで来ます。そのうち過去はともかく、未来もさておき、この現在について考へると、それはどこかで少し無理をしてゐるといふ気がしないではありません。といふ意味は、決して、実力以上のことをしてゐるといふのではなく、寧ろ実力を発揮する
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