熟な、芸術的天分の少い俳優は、常に、その「人物」を、期せずして、調子の低い、類型的な、如何なる意味に於ても魅力のない人物として「頭に描いて」しまふのである。これを訂正することは、如何なる演出家と雖も困難至極である。これに反して、才能に富み、教養豊かなる俳優は、戯曲に描かれた人物を、最も正確に、最も溌剌と、しかも、時として、その戯曲が求めてゐる以上、「魅力ある」人物として自分の頭の中に描き出す能力を備へてゐるのである。
 芝居が「面白く」なるのは、多くこの秘密が土台になつてゐる。
 即ち、かういふ俳優ばかりなら、稽古は恐らく一週間で十分なのかもしれない。が、事実は、然らず。現在日本の新劇俳優諸君は、その才能と教養を補ふ意味に於て最少限二た月の稽古を必要とする。そして、せめて、脚本中の一役を「十分に」理解し、これを「演劇」が求めてゐる程度に「魅力づける」努力をしなければならぬ。
 今日までの新劇は、戯曲中の人物を、「消極的」に肉体化《アンカルネ》してゐたにすぎぬ。つまり、脚本と俳優とが手をつないで、辛うじて舞台の上を歩いてゐたのである。「面白い」芝居とは、少くとも、俳優が、独立して、舞台を
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