闊歩せねばならぬ。脚本が、個々の人物に砕けて、俳優の中に融け込んでゐる状態から、「演劇」が始まるのである。脚本は俳優に人物Aを提供する。俳優は舞台に人物A'[#「A'」は縦中横]を運んで行くのである。AとA'[#「A'」は縦中横]との間には、文学から演劇に通ずる歴史の経過がある。即ち、作家的空想から俳優的空想への推移であり、発展である。戯曲の再現とはこのことを云ふのだ。過去の新劇は、畢竟、舞台より、この俳優的空想と、その表現の自発性を促すかの大切な感受性を排除してゐたのだ。芝居として面白くないのは当然である。同時に、日本の演出家が、常に俳優の指導者たらんとして、しかも真の俳優を作り得なかつた原因は、演劇論的にこの認識を欠いた結果に外ならぬ。
 そこでこの「俳優的空想」なるものであるが、これは、元来、事新らしく論じるまでもなく、俳優の演技を生み出す根元であつて、その「空想」の質によつて、舞台の色調と品位を決定するものである。歌舞伎には歌舞伎俳優的空想があり、新派には新派俳優的空想が、曾我乃家には曾我乃家的、エノケンにはエノケン的空想があつて、それぞれ、芝居を種々な意味で「面白く」してゐるが、
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