自分に加へた批評であるかのやうな感銘を受ける時、その批評家は、みぢめである。
 彼は、しまひに、本当のことが言へなくなるだらう。
 僕もさういふ一人であるらしい。


「翻訳者の歓びは、発見者の歓びである」
 僕がかういふのに対して、友の××は言ふ。「翻訳にも創造がある」と。そして附け加へる。「マラルメやヴアレリイを訳してゐれば、自分も詩を作らうなどといふ欲望は起らない」と。
 僕がこの友を畏れ、且つ愛する所以である。


 親戚の青年が一人、僕のところにやつて来る――月に一度乃至二度。
 彼は、来た時にはたゞ頭を下げる。それから帰る時、「もう帰ります」と云ふまで、黙り続けてゐる――二時間でも三時間でも、時とすると半日。
 僕は仕事の手を休めて彼の顔を見てゐる。といふよりも彼が今、何を考へてゐるかを知らうと努める。……彼は何も考へてはゐない。たゞ、悩ましげに、「自己の存在」を見つめてゐるのだ。
 彼は僕と話をしに来るのではない。彼には、黙つて彼の前にすわつてゐる人間が必要なのかも知れない。
 誰にでもさういふ時がある。


 庭にコスモスを植ゑさせた。少し時期が遅いかも知れないといふこ
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング