自身の言葉遣ひ」を創り出すのである。それは、周囲の影響を、さう易々と受け容れるものではない。流行語などを得々と使ふ手合は、概ね教養に於て欠けるところがある人々である。
 所謂方言や訛を固執する必要もないが、時と場合を考へて、その方言や訛が、自分の「言ひたいこと」を、伝へるのに不便であり、不似合であると判断したなら、それを緩和し、標準語に近づけることができればそれでいゝ。さういふ時にでも、言葉に対する感覚が、言葉そのものよりも一層重要な役割をつとめるものである。この感覚は、つまり、教養から来るのであつて、文学の趣味などは、最もさういふ方面の助けになると思ふ。

       三

 正しい言葉といふものは、必ずしも、美しい言葉ではない。正しい言葉は、誰が遣つても正しい言葉であるが、美しい言葉は、遣ふ人によつて、美しい言葉となるのである。
 方言の美しさ、子供の片言の美しさなどを感じ得る人は、「言葉の魅力」について、世間の人達が、どんなに無関心であるかに気がつく筈である。
 装飾は借り物ですむ場合もあるが、「言葉」だけは、決して、「借り物」ですまされないところに、一つの秘密があるのである。
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