れるのが普通である。殊に、若い女学生の間などでは、「東京の流行語」がそのまゝお手本になるやうなことがある。
東京は文化の中心であるといふ印象が、かういふ傾向を持ち来したのであるとすれば、それも止むを得ぬが、これがために、悲しむべき結果が生じてゐる。といふのは、地方の訛がぬけぬうちに、「東京の言葉」を強ひて使ふ可笑しさは、御本人にとんとわからぬと見えるからである。これでは折角「文化人」らしく見せようとする努力が、最も「野暮つたい」人物を作り上げてしまふことになるのである。
かういふ無駄な努力をするよりも、それだけ「言葉」に神経を使ふなら、地方の人は地方の人らしく、「自分の言葉」を「教養」によつて、正しく、美しくすることに心掛けるがよろしい。東京の人達でも、教養のない人々の言葉は、決して、模範とするに足りないのである。
そこで、「言葉」といふものは、同じ言葉でも[#「同じ言葉でも」に傍点]、それを遣ふ人の教養如何によつて、全くその面貌を異にするものであることを知らねばならぬ。
それと同時に、教養のある人々は、その教養から生じる洗練された趣味で、自分に適せぬ「言葉遣ひ」を排し自今、「
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