へられる。
次に年齢に応じて、境遇経験を異にする友達から、「言葉」を教へられる。
第三に、学校の教師から、所謂「標準語」として、実は「教師固有の言葉」を教へられる。
かうして、丁年に達する頃には、略、「その人の言葉」なるものが出来上るのであるが、その「出来上つた言葉」は、正しいか、美しいかといふ問題を別にして、大体、その人の「人柄」をそのまゝ写してゐるものだと云ひ得るのである。
この場合、方言とか訛とかは、その人の出身地を示すだけで、必ずしも「人柄」を現はすものではなく、「東京のもの」か「地方のものか」といふ区別は、なんら「言葉の値打」に関係はないのである。
さて、「言葉」が「人柄」を現はすといふ事実から、「言葉」に対する興味が動いて来るのは、どうしても、ある程度以上の年齢に達してからである。所謂社交らしいものがはじまり、都会に学ぶ機会を得、小説に読み耽り、自分の「心」まで鏡に映してみようといふ年頃である。
二
さういふ時機に、はじめて、「言葉に対する批判」が開始されるわけであるが、先づその標準として、「東京の言葉」なるものが、「地方の言葉」よりも重んぜら
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