大体次のやうな注意が必要である。
 一、標準語は、文法的には正しいかも知れぬが、元来、「活きた言葉」として、自然な感情を盛るに適しない。従つて、方言を訂正する参考にはなるが、対話の呼吸を束縛する恐れがある。
 二、東京弁なるものの中に、実は、東京の方言が沢山混つてゐることを知らねばならぬ。殊に、同じ東京でも、山の手と下町では、言葉の性質が違ふ。その上、東京弁は、東京乃至関東人の「気質」を表はしてゐる言葉であつて、例へば、関西の人が東京弁を使つても、それは東京弁にはならないのである。
 三、地方の方言又は訛は、それ自身、少しも排斥すべきものではないが、習慣的に、他の地方、殊に東京では、耳障りになる。滑稽に聞える。それも「個人的」な話の場合はそれほどでもないが、「公」の場所、又は、「公」の問題だと、一層、不似合な感じを抱かせる。理屈に合はぬ話だが、これは「文化は東京を中心とし、学問は東京弁に近い標準語を以て学ぶ」といふ単純な理由からであらう。が、前にも述べた如く、地方語には地方語の特色魅力があり、また、ある地方の「言葉」は、その地方の「気質」を伝へるに適してゐるのだから、これを「利用」することによつて、「言葉」に生彩を与へることも忘れてはならぬ。
 四、最も忌むべきことは、正しい言葉を使はうとして、紋切型に陥ることである。月並な挨拶や、個性のない表現に囚はれることである。東京の女には、非常にこれが多い。殊に、女学校を出て家庭をもつた婦人といふのには、自ら社交的と信じてゐればゐるほど、この傾向が著しい。ぺらぺら喋る言葉が、一つとして「自分の言葉」でなく、従つて、真の魅力を具へてゐない。御座なりな文句ほど、その人間を安手に見せるものはないのである。
 五、東京の女学生は、同じ東京弁でも、やゝ変態的な言葉を好んで使ふ風がある。家庭で「上品ぶつた」言葉を使はせられる少女たちほど、学校で、友達とはぞんざいな言葉を使ひたがるのである。男の言葉を真似たり、「酒場《バア》」あたりから流れ出る流行語を口にしたりする。これは、しかし、意識的に、戯談に、反抗的に使つてゐる場合が多く、別に咎めだてをするには当らぬが、地方から出て来た少女が、これを真向から受け取ると厄介である。「言葉」を弄《もてあそ》ぶといふことは、一つの文化的遊戯には違ひないが、これは火遊びに類するもので、怪我をすることがある
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