言葉の魅力は、それ故、初めにも云つた通り、詮じつめれば、「表情の美」である。意識するとしないとに拘はらず、自分がそのまゝ「言葉」の中に出るものであるから、極端に云へば、「言葉」を美しくしようと思へば、自分自身を錬へ上げるより外はない。信念を披瀝する人間の言葉、愛情を吐露する人間の言葉が、常に、何等かの意味で美しいと同じく、素朴な人、感情の濃やかな人、控え目な人などと、それぞれ、その人らしい言葉を使ふものである。そして、それは、それぞれの意味で美しい響をもつてゐる。
言葉は性格を反映するばかりでなく、その人の「品位」を決定する。この中には多少趣味といふものも含まれてゐるから、上品な言葉遣ひとか、下品な言葉遣ひとか云つても、それだけで、その人の「品位」全体を推断することはできないが、言葉の撰択に示されたある標準が、少くとも、この人を上品にし、又は下品にする。この場合、上品な言葉を遣ふからその人が上品であるとは限らない。練習次第では、どんな「言葉遣ひ」でも真似られるものである。それがたゞ、ほんとうに自分の撰択によつて、自分のものになつてゐるかゐないかである。例へば、俗に云ふ、「遊ばせ言葉」なる一種の上流語は、必ずしも「品位」のある言葉ではなく、時には、形式的な儀礼を示すに過ぎず、時には、相手の貴族的階級心に媚びる卑屈な調子ともなるのである。
品位のある言葉とは、要するに、その人の「高い教養」から発する「矜持《プライド》」の現はれであつて、己れを識り、相手を識り、礼節と信念とを以て、真実を美しく語る言葉である。
四
とは云へ、日常の会話が、それほど「選択された言葉」である筈はなく、またその選択に、それほど時間と労力を費してゐては、話す方も大儀なら、聴く方も骨が折れ、従つて、結果は、「言葉の魅力」を発揮し得ないわけである。
言葉は、「自然」であることが、比較的美しいといふのはそこである。従つて、不用意に発する言葉が、そのまゝ「魅力のある」言葉となる場合は屡々あるのである。
が、同時に、「訓練された言葉」そのものは、一つの文化的魅力であつて、日本人はもつと「現代語」を美しくする工夫をしなければならぬと思ふ。
「語られる言葉の美」と題する一文の中で、私は嘗てこの問題を詳く論じたことがあるが、声と発音のことは別として、「言葉遣ひ」だけについて云へば、
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