れるのが普通である。殊に、若い女学生の間などでは、「東京の流行語」がそのまゝお手本になるやうなことがある。
 東京は文化の中心であるといふ印象が、かういふ傾向を持ち来したのであるとすれば、それも止むを得ぬが、これがために、悲しむべき結果が生じてゐる。といふのは、地方の訛がぬけぬうちに、「東京の言葉」を強ひて使ふ可笑しさは、御本人にとんとわからぬと見えるからである。これでは折角「文化人」らしく見せようとする努力が、最も「野暮つたい」人物を作り上げてしまふことになるのである。
 かういふ無駄な努力をするよりも、それだけ「言葉」に神経を使ふなら、地方の人は地方の人らしく、「自分の言葉」を「教養」によつて、正しく、美しくすることに心掛けるがよろしい。東京の人達でも、教養のない人々の言葉は、決して、模範とするに足りないのである。
 そこで、「言葉」といふものは、同じ言葉でも[#「同じ言葉でも」に傍点]、それを遣ふ人の教養如何によつて、全くその面貌を異にするものであることを知らねばならぬ。
 それと同時に、教養のある人々は、その教養から生じる洗練された趣味で、自分に適せぬ「言葉遣ひ」を排し自今、「自身の言葉遣ひ」を創り出すのである。それは、周囲の影響を、さう易々と受け容れるものではない。流行語などを得々と使ふ手合は、概ね教養に於て欠けるところがある人々である。
 所謂方言や訛を固執する必要もないが、時と場合を考へて、その方言や訛が、自分の「言ひたいこと」を、伝へるのに不便であり、不似合であると判断したなら、それを緩和し、標準語に近づけることができればそれでいゝ。さういふ時にでも、言葉に対する感覚が、言葉そのものよりも一層重要な役割をつとめるものである。この感覚は、つまり、教養から来るのであつて、文学の趣味などは、最もさういふ方面の助けになると思ふ。

       三

 正しい言葉といふものは、必ずしも、美しい言葉ではない。正しい言葉は、誰が遣つても正しい言葉であるが、美しい言葉は、遣ふ人によつて、美しい言葉となるのである。
 方言の美しさ、子供の片言の美しさなどを感じ得る人は、「言葉の魅力」について、世間の人達が、どんなに無関心であるかに気がつく筈である。
 装飾は借り物ですむ場合もあるが、「言葉」だけは、決して、「借り物」ですまされないところに、一つの秘密があるのである。
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