五

 現代の小説や戯曲は、大体、標準語たる口語体で書かれたものであるが、日本の口語体は、そのまゝ「話される言葉」でないことは誰でも知つてゐる。「話すやうに書く」と主張する作家もあるが、戯曲はとにかく、小説となると、どうしても叙述が主になるから、日常の対話とその趣を異にするのが普通である。
 それなら、小説の中の会話や、戯曲の中の白《せりふ》がどうかと云ふと、これまた、その人物の境遇、職業、年齢、教養、並に作者の好みによつて、所謂、「万人」の模範となるやうな言葉を使はせるわけに行かない。
 が、何れにせよ、文学に親しむことは、言葉の洗錬に役立つこと勿論で、字引のやうにそれをそのまゝ使はないまでも、言葉に対する感覚を鋭敏にし、豊富にすることはたしかである。
 それならば、文学を専門にやつてゐる人達の「言葉遣ひ」乃至、「言葉の調子」は、さぞ申分のないものであらうと想像されるかも知れぬが実はそんなものでなく、普通の人から見れば、その「文学的すぎる言葉の遣ひ方」が、既に、片寄つた好みと癖を示し、一種の臭みになつてゐることを気づくのである。
 言葉の中に含まれる「職業的臭味」といふものは、全く争はれないもので、これがその人の特徴にもなり、また多くの場合、気障《きざ》つぽさや滑稽さを加へるものである。教師は何時でも「教師らしく」話し、女優は何時でも「女優らしく」話すものであつて、それを自分では知らずにゐるのである。

       六

 そこで、「言葉遣ひ」と共に、「言葉の調子」といふものが、如何に重大であるかといふことがわかる。
 方言や訛と共に、「アクセント」といふ問題が生じて来るが、これは、単語について云へば、関西と関東とで、大体あべこべと考へてよろしい。この習慣はなかなかなほらないもので、発音の訛はなくなつても、アクセントの誤りは、東京に三十年ゐてもそのまゝといふ人が随分多い。
 しかし、それよりも大事なのは、「言葉全体の調子」つまり、「話のしかた」とも云ふべき、抑揚高低緩急の操作である。これは、「言葉遣ひ」の中に含めることも出来るが、引離して考へる方が便利であるから、こゝで、一応述べておくことにしよう。
 言葉の調子を形容するのに、例へば、「甘つたれた調子」とか、「朗らかな調子」とか、「無愛想な調子」とか、「慇懃な調子」とか、「世間馴れた調子」と
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