言葉の魅力
――女学校用国語読本のために――
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)相《すがた》

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 言葉といふものは、書かれる場合と話される場合とで、余程性質が違つて来るものである。
 書かれた言葉、即ち「文章」については、いろいろの研究や模範が示されてゐるが、「語られる言葉」即ち「談話」といふものになると、まだ日本ではそれほど人々の注意をひいてゐない。
 文章の善し悪しは、近頃漸く正しい批判に基いて論じられるやうになつたが、「談話」や「弁舌」の標準は、どうもあやふやで頼りない気がする。
「話上手」とか、「弁が立つ」とかいふのを実際聴いてみると、多くは型にはまつた言葉の羅列で、ほんたうの魅力を感じることは少いといつていゝ。
 文章と同様、「語られる言葉」もまた、単にある限られた思想や感情を伝へるばかりでなく、その「人」を、即ち語り手の年齢、性、教養、環境、国、時代、更にその職業、性格、気分までを現はすものであつて、さういふ意味から、「言葉の芸術」といふものが生れて来る。つまり、文章が文学に繋がるやうに、「語られる言葉」は話術、または雄弁術、殊に演劇の白に繋がるのである。

 ところで、さういふ専門的なことは別にして、日常われわれの使用する言葉についていへば、そこにもやはり文化生活を営むものにとつて、必要な「言葉の訓練」があり、この訓練が個人々々の言葉遣ひ、言葉の調子、言葉の魅力を生むことになるのである。
 随つて、ある人物の使ふ言葉は、どんなに不用意に使はれても、それはその人のいつか身に著けた言葉であつて、肉体に伴ふ表情のやうなものなのである。
 われわれはまづ家庭で最初の言葉を教へられ、次に年齢に応じて、境遇経験を異にする友だちから知らず識らず言葉をうつされ、第三に学校で教科書等を通じて、いはゆる標準語を修得するのである。かうして丁年に達する頃には、ほゞ「その人の言葉」なるものが出来上るのであるが、それから後と雖も、社会に出て、さまざまな影響のもとに言葉の内容・色彩が複雑になり、またそれだけ独特な「味」をもつやうになつて来る。「話をしてみると、その人柄が分る」といふのはつまりかういふわけだからである。

 さて、それなら、どういふ言葉を
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