使ふのが宜しいかといふことになるが、それは今日どういふ人物が理想的な人物かといふ問題と同様、極めて解答のしにくい問題である。こゝで私は、「正しい言葉」と「美しい言葉」とを区別してみようと思ふ。
正しい言葉遣ひは、誰でもしようと思へばできるのである。文法を習つて、それに従へばいゝわけである。しかし、正しい言葉必ずしも美しい言葉とはいへないところに一つの秘密がある。それと同時に、美しい文章がそのまゝ美しい話し方にならないことにも注意すべきである。現代日本の「口語体」といふ文章は、やはり「書かれるための言葉」であることは誰でも気がついてゐることに相違ない。ほんたうの「語られる言葉」は、もつと日常生活に即した、刻々の感情に裏づけられた、唐突ではあるが自然な、整理されてはゐないが常に呼吸の通つた言葉である。そして、それは、眼で見る言葉でなく、耳で聞く言葉であることを原則とする。それ故、語られる言葉の美しさは、声を離れて考へることはできないのである。
言葉は表情のやうなものだと前にも述べたが、表情もまた広い意味では一つの言葉である。そこで、言葉の美しさは、言葉そのものゝ選択配列、それを語り出す表情、それが語られる声の質等によつて、さまざまな陰翳となつて現はれる。更に言葉の選択配列といひ、表情といひ、声の質といひ、いづれもその時と場合で思ふやうに変へられるものではなく、多少の工夫や準備はできるにしろ、大概は表面だけの修飾に終つて、その本質は言葉の底に覆ふことのできない相《すがた》として示されてゐる。人物の面白さ、その個性の閃きが、第一に言葉の魅力となることはこれで分ると思ふ。
趣味の高さ、情操の豊かさ、感覚の鋭敏さ、信念の固さ、かういふ人間的風格は無論言葉に品位と迫力とを与へるものであるが、また一方、子供の片言や俗語・方言などの中に微妙な愛すべき表現を発見して、これあるかなと思ふことがある。真実の響きといふのは、即ちかくの如きもので、言葉の生命は決して装飾にあるのではないといふ証拠である。
言葉遣ひといひ、話のしかたといひ、要するにその魅力の本体は、その人間のものの考へ方、感じ方にあるのであつて、いかなる練習も工夫も、お座なりや紋切型の口上に類するものなら、これは凡そ言葉の魅力からは遠いものであることを知らねばならぬ。たゞし、言葉もまた一つの文化的発達を遂げるべき性質
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