劇道救済の必要
岸田國士
現在、わが劇壇を通じて、演劇の独立性を辛ふじて維持してゐるのは、さすがに歌舞伎劇のみである。比類なき伝統の美は、何ものの侵略をもゆるさず、また、何物の力を藉りる必要もないからである。
ところが、一方、時代と倶に推移する演劇――戯曲中心の演劇――所謂、新派以後の演劇はどうかといふと、これはまだ演劇としての独立性をもち得ずにゐるのである。たまたま、二三の人々によつて試みられた「新劇運動」は、等しく目標をそこにおいてゐたにも拘らず、努力の結果は、常に失敗に終つてゐる。
その間には、無論、若干の記録的上演もあるにはあるが、多くは偶然に恵まれた一時的勝利であつた。
新時代の演劇は、かやうにして、演劇それ自身の魅力によつて観衆を惹きつける条件を具備してをらず、従つて、演劇としての独立性を欠いてゐるわけなのである。
新派の衰運、新劇の萎微、共に、原因はこれ以外にない。そして、昨今、劇壇を通じて、一つの露骨な傾向が雄弁にこの間の消息を語つてゐる。
それは、いふまでもなく、小説の脚色と映画の舞台化である。その小説や映画は、テエマ乃至筋の興味もさることながら、これま
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