で評判になつたもので、人口に膾炙した標題が第一に選ばれる。
 これは興行者としての賢明な思ひ付きであるのみならず、脚色を担当する者にとつて安全な仕事であり、之を演じる俳優も亦「芸」の誤魔化しがきき、見物は、「知つてゐることしかわからない」俗衆である限り、大抵満足するのである。
 しかし、この傾向は、動機の如何に拘らず、演劇の進化に、一つの刺激を齎さないものでもない。日本の劇壇がもし行きづまつてゐるとすれば、この辺から何か新しい発見に到達するかもわからないのである。ただ、演劇の純化を夢みつつあるものは、この「非常手段」が、舞台演劇の本質を駆逐し、俳優と戯曲とを永遠に絶縁せしめるに至ることを懼れるのである。
 実際、戯曲として生れた戯曲は、概ね今日、舞台上で、その芸術価値を発揮することができず、たまたまできたにしても、それほど興行価値を高めることにはならないのは勿論、その失敗は、却つて例の脚色物の失敗以上に惨憺たる結果を招くのである。なぜなら、前者には、予めこの失敗を償ふ用意がないからである。言ひ換れば、俳優の「技術を俟つて生かされる要素」を主にしてゐるからである。
 演劇をして再び演劇た
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング