劇壇漫評
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)演《や》つて
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 新時代の演劇熱が、いよいよ通過すべき処を通過しつゝあるやうである。といふのは、戯曲創作熱から脚本上演熱に遷らうとしてゐることである。
 昨今、少し大袈裟な云ひ方をすれば、新劇団の創立を伝へない日は稀である。何々座試演の招待券を貰はない日は稀である。実際の仕事を見なければ何んにも云へないわけであるが、これがたゞ単に、彼の戯曲創作熱がさうであつた如く、既成劇壇の模倣に終始しないことを切望するものである。月並な警告と云はゞ云へ、これら新劇団の標準が、果して何処にあるかを、考へてゐる人間があることだけでも知つてゐて欲しい。
 幸四郎がシエイクスピイヤを演じ、歌右衛門が乃木大将夫人に扮し、菊五郎が支那服を着て踊り、而して我が武者小路実篤氏が自作自演をする当節、何人か能く一代の名優たらざらんやである。
 私事に亘つて恐縮であるが、先日電燈会社社員某氏の名を以て、拙作上演の許諾を求められた。電燈会社から素人俳優……? 僕は、それが若しや瓦斯会社の間違ひではないかと思つた。そして、その某氏こそ、仏蘭西式に呼べばアンドレ・アントワアヌではないかと思つた。
 諸君は、かういふ僕を可笑しいと思はれるなら、一昨々年か巴里で出版された自由劇場回想録を読まれるがいゝ。アントワアヌは、その当時、瓦斯会社の集金係をしてゐた。そして、仲間の芝居好きと一緒に素人劇団を組織した。その頃、巴里を中心に、素人芝居が盛んに流行してゐた。「今の若いものが踊りを踊るやうに、その頃の若いものは、役者の真似をした」と云つてゐる。
 どうです、僕が胸を躍らしたのも無理はないでせう。僕はかねがね、現今の日本劇壇は仏蘭西の一八八七年頃に相当すると思つてゐる。なぜなら………………くどいからよしませう。
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 脚本上演熱に関連して特筆すべき現象は、これら新劇団の多くが、「自分らの作者」らしきものを擁してゐることである。このことは過日水木京太君も時事新報紙上で指摘してをられたやうであるが、僕はそれを非常に結構な現象だと思つてゐる。杞憂を述べればいろいろあらうが、まあしばらく見てゐようぢやありませんか。かういふ場合、度々引合に出される例ではあるが、モスクワ芸術座に於けるチエホフの役
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