割を演ずる作者は、さうざらにあるものではない、さうかと云つて、いつまでも、バンヴィルやゾラを演《や》つてゐたんでは自由劇場も存在の理由がなかつたであらう。やつぱり、無理を押してゞも、無名作家の名を振りかざした処に、あの仕事の意義があつた。
そこで、わが新劇団の多くに望む一事は、「未知の才能をその萌芽のうちに見出せ」といふ難事業よりも、寧ろ、上演目録編成に当つて、劇団の個性を発揮することに努めること、即ち、何等かの意味で、劇壇に於ける一つの「新しき存在」となり得るために、「特色ある舞台」を作るといふことである。
この個性といひ、特色といひ、それは今日新奇を追ふものゝ一切を含んでゐない。たゞ、その劇団の「生命」――「看板作者」によつてその尖端を形造る一つの「傾向」を云ふのである。例へば、かの――「舞台を詩人の霊感に委せよ」といふ主張の如きこそ、最も鮮やかなる新旗色であらうと思ふ。
×
新劇団の簇出は、勢ひ在来の劇団、即ち、新劇を演ずる玄人団体の存在を思ひ起させる。
敢て名を挙げよう。曰く、新劇協会、曰く舞台協会、曰く兄弟座、曰く……。美しく云へば花火の如く、神秘的に云へば彗星の如く、而も平凡に云つてしまへば、何のことはない○の如く、出たと思つたら引込み、あると思つたら消えてしまふこれらの劇団は、今や何処にあつて何をしてゐるのか。「やるやる」とばかりにてやらないところだけがそれぞれの特長ででもあることか、「やる」といふにも訳があり、やらなくなるにも事情はあると云へばそれまでだが、今度「やる」と云つても人が信用せず、切符はまたやらなくなつてから買へばいゝなどゝ落ちついてゐられたらどうします。
かう云つて置いて、僕は、新劇なるものゝ上演が、かくまで困難なる理由を考へずにはゐられない。
実は、それは考へるまでもないことだ。
底本:「岸田國士全集20」岩波書店
1990(平成2)年3月8日発行
初出:「演劇・映画 第一巻第一号」
1926(大正15)年1月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング