ィクトオル・ユゴオやトルストイは大衆的小説を書き、同時に、それが芸術的な高さをもつてゐたと論じる人々もゐる如く、演劇の通俗性を承認して、これを現代思想的背光によつて飽くまでも「芸術」たらしめようとする両天秤案も現はれてゐるやうだ。各人各説、十人十色の拠り処があつて然るべきだが、事、専門に関する限り、一応は「純粋に」その仕事の本質を突き止めておく必要がある。言ひ換へれば「手段」としてでなく「目的」としての活動に何等かの意義を与へなくてはならぬ。
 卑近な例をとれば、水銀から金を採るといふ実験の成功(?)は、誠に華々しく聞えるやうだが、これは、純粋な学問的立場からは、スペクトルの数字的発見と何等異るところはなく、ただ前者は「通俗的、大衆的」に何等かを刺激煽動する効果をもつてゐるといふだけだ。それも「水銀が金になる」といふやうに「誤解」させれば一層センセイショナルな社会的成功であつて、「如何なる水銀も、多少の金をもともと含んでゐる」といふ専門的基礎知識に照せば、単に、「水銀から金を分離する」ことに成功した「予想し得る事実」なのだ。それゆゑに、「水銀から金を採る」実験が、卑むべき仕事であるとい
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