ふのではないが、この仕事が、「目的」として価値をもつか、「手段」として価値をもつかが、その学者の純粋さを決定するのだ。つまり、発見者と発明家との分岐点だ。学説と特許願書の相違だ。
然しながら、同じ学者と称せられるもののうちに、なほかつ、この二つの型が存在する如く、作家の仲間にも、明かに、この二つの型があり、劇作家の如きは、概ね、例外なく後者の型に属するものと私は考へる。だが、それは今日までの演劇の「歩み」が、勢ひ、それを強ひたのだ。そして、繰り返して云ふが、この事実は、別に悲しむべきことではない。ただ、演劇の将来が、われわれ自身の問題として横たへられた時、「新しき道は此処にあり」といふ一つの目印として、私は、先づ、劇文学の領域にあつて「純粋な」ものへの方向がまだ残されてゐることを痛感するまでだ。
嘗て言つた如く、演劇は、それ自体、錯綜極まりなき迷路である。如何なる「門」からでも、演劇に入ることが出来、しかも、出口はただ一つなのだ。俳優の門がある。舞台監督の門がある。装置家の門があり、戯曲家の門があり、照明、効果などといふ門もある。
近代のある一時機に於て、戯曲家の門が不当に狭めら
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