落ちるから親爺の褌を見馴れてゐるわれらが、能楽の単純主義にさう驚くわけもなし、それをまた、真似てみる興味もなからう。まして、われわれは、チエホフを識つてゐるのだ。意識的に、チエホフから出発し、意識的に能楽の精神に近づくことは、やがて、演劇の本質主義を徹底させることになるばかりでなく、劇文学当面の問題は、理論上、一つの進路を与へられたことになるのである。
かういふ主張は、しかし、まだ、私の周囲で行はれてゐるわけではない。さうであれば、勿論、私など出る幕ではないのだが、静かに観察してみると、これから世に出ようとする若いヂェネレエションのうちにも、やはり、「純文学派」と、「大衆文学派」とが、同じ戯曲作家のうちに入り混つてゐるやうである。「大衆文学派」は、実際家であり、今日党であり、化学でいへば、応用組(?)である。「純文学派」は、理想家であり、明日党であり、学者でいへば、一生を実験で暮す研究室組である。どちらも、境界のところははつきりしないが、極端になると軽蔑し合ふ傾向があり、もつと極端まで行くと、互に同業者であることを気づかなくなる。
中にはまた「大衆性」といふ言葉を有難く解釈して、ヴ
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