なんといふ皮肉であらう。
 私は恐らく、この秋頃から、それらの友人達にくつついて能楽を「拝見」することであらうが、果して、よく、一曲の終るまで居眠りの辛抱ができるかどうか、正に保証はできかねる。といふのは、かくも「偉大なる」演劇的モニュメントなるにも拘はらず、私の性分に通じなさうに思はれるのは、この舞台たるや、飽くまでも、「現代」と没交渉であることだ。私は、決して、「現代」を好んではをらぬ。それどころか、「現代」に生を得たことを甚だ悲しむものであるが、どうも、「現代」といふものが一番気になるのだ。何か「現代」から眼をそらすことが怖しい。いや、眼をそらすことが淋しいのだ。私は「現代を救はう」などと考へてをらぬ。なに、結局「現代人」なるものが、愛するに値しなくとも、一番、見てゐて面白いからだ。
 余談はさておき、近代の戯曲作家で、能楽にヒントを得て、その作品を物したと称せられる男が二人ある。一人は仏蘭西人、一人はアイルランド人だ。二人とも、能楽の精神を解してゐたかどうかは怪しいものだが、私の考へるところでは、東洋芸術に、異国的新鮮さを味ひ、怪奇な幻想を貪り得る人種ならいざ知らず、苟も、生れ
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