、描写の如何、その他直接感情に愬へる言葉の意味さへ、殆ど能楽全体としての効果から云へば計算に入れなくてもいいのだ。結局、謡曲なるものの、所謂「物語としての」文学的発展、殊に、所謂「劇的」な内容は、能楽の高い鑑賞には却つて邪魔つけなのだ。それは飽くまでも、演技化された「言葉の魔術」だ。「言葉」の音と意味とが、何れともつかず渾然と同化して、瞬間瞬間の「幻象《イメエジ》」を繰りひろげ、その幻象が、刻々生命の象徴として視覚的に浮び出るのだ。連鎖なき言葉の幻象にこそ、超現実的生命が流れるので、そこにこそ、自然ならざる「真」を感じる悦びがあるのだ。
私の能楽礼讃は、しかし、多少、眉唾ものだ。なぜなら、能楽そのものを、私ほど観てゐないものは少なからうし、また、観てもそんなに面白いとは思はぬにきまつてゐるからだ。が、ただ私は能楽ファンの一群を友人に持ち、彼等の熱狂ぶり、と云つて悪ければ、その渇仰ぶりを見て、内心甚だ穏かならぬものがあり、且つ、理論的に考へて、誠に、さもありなんと思はれる節もあり、殊に、私の演劇本質論が、偶然、この影の薄いと思はれた骨董的芸術によつて、またとなき根拠を与へられたことは、
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