一人がイプセン、ゴオゴリ、ハウプトマン、マアテルランク、エドモン・ロスタン、久保田万太郎の名を知らないであらうか?
彼等は、少くとも、現代の戯曲が、如何なる意味に於て生気を失ひ、如何なる点で行きづまつてゐるかを気づいてゐる筈だ。彼等のうちの最も野心あるものは「傑作」を書かうとする前に「如何なる方向」に進むべきかを考へない筈はないのだ。彼等は、所謂「新しさ」に飽き、「こけおどし」に迷はされず、只管「本質」の問題を考へはじめてゐる。漸く、そこに来たのだ。文壇の風潮から、なるほど、遠いではないか。
チエホフは、幸ひにして、あの豊富な文学的内容によつて、わが文壇に多くの知己を得、その戯曲は、恐らく、戯曲としてよりも、何かしら「ユニック」な文学的作品として、全く申分のない歓待を受けたやうだが、誰か文壇の批評家で、謡曲のうち、最も「意味の通じない」曲を、ひとつ、文学的に評価してみるものはないだらうか? これは最近仕入れた知識であるが、能楽の舞台に於ては、さういふ曲こそ、最も純粋な魅力を発揮するものであるらしい。言ひ換へれば、物語の筋及び、その構成の如きは、能楽としては寧ろ第二義第三義的なもので
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