劇の上演から生れ出た一種名状すべからざる演技上の臭味――外国戯曲の傑作を紹介するのだといふ態度から出た、一種のジャアナリスト的横柄さ、その上、さういふ舞台が時を得た夢のあとで、「あれくらゐのことなら、おれたちにでもできる」といふ舞台を甘く見た安易さ、等々の手がつけられぬカサブタだ。
嘗て築地小劇場の首脳部にあつて、今日もなほ演劇に対する熱情を示しつつある北村喜八氏は、私のこの説を半ば承認され、しかも、それは小山内氏或は築地小劇場の罪ではないと、やさしく弁護を試みられたが、私は、更に、北村氏の説を四分の一承認してもよろしい。それは、この病根は既に、わが国新劇の創始時代から徴候を見せてゐたに相違なく、翻訳劇から出発した新劇の舞台は、それが「紹介的」であると「独創的」であるとに論なく、既に、翻訳につきものの、「概ね正確」なテキストを、「概ね正確」に演じることで満足するより外なかつたのだ。ところが、演劇に於て、殊に、俳優の演技に於て「概ね正確」といふことが、最も恐ろしいことなのだ。
なぜなら「概ね正確」な台詞の言ひ方や身振りなどといふものは、「全く間違つてゐる」のと同じか、或は、それ以上、
前へ
次へ
全18ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング