芝居をぶち毀すのだ。ただ、その芝居を平気で見てゐられるとすれば、その人は、「正確」であると思ひ込んでゐるだけだ。つまり芝居がわからないのだ。北村氏も云はれる如く、たとへ、翻訳劇にその「正確さ」が多少ゆがめられてゐたにもせよ、嘗て、築地の舞台に於て名作の名演出が、十二分の魅力を放つたかもしれない。
 しかし、それも、程度の問題で、日本だからと云ふにすぎなくはないか。殊に、忘れてはならないことは相当外国文学の素養があれば、翻訳は、それ自身のもつ欠陥を多少補ひつつ読めるのである。舞台も同様で、その作品を十分翫味してゐれば、演技や演出の不備は、ある場合、自分の幻想によつて塞ぎ得るのである。
 兎も角も、過去に於て、日本の新劇が、翻訳劇から出発し、その歴史の大半を、翻訳劇によつて埋めたといふ事実に対して、私は、何等口を挟まうとは思はない。要は、その時代の権威ある指導者が、何故に、今日の結果を予想して、適切な警戒を加へなかつたかと云ふのだ。何故に、完全な日本語を、正確に喋れない俳優を作つたかと云ふのだ。罪を俳優に被せるのもよろしい。たしかに、彼等にも怠慢の罪はあるだらう。修業の方法を誤つたと云つて
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