頃の青年が、純粋に素人から成る研究劇団を作らうとするもの、即ちこれである。
 何れも、演劇貧困の時代的要求から生れたものであるに相違なく、その意気と抱負は、私はじめ、十分認めることができるのだが、甚だ失礼な言ひ草を許して貰へるなら、何れも、凡そ、その結果が予想され、義理でもなければ、観に行く気はしないのだ。
 無論、何等かの意味で、今までのものとは変つてをり、余程の新劇ファンか、芝居ならなんでも御座れといふ常連には、相当の感興を与へることと思ふけれど、少し批評的に、或は、やや専門的にその舞台を観れば、一二の俳優の隠れた素質を発見するといふくらゐが関の山で、プロダクションそのものには、お世辞にも感心はできまいと思ふ。なぜそんな乱暴な予言ができるかといへば、結局、この新しい劇団のスタアトに於て、新しい「性根」を見せてゐないからだ。つまり、新劇の所謂新劇たる殻が、どことなく、その「精神」を包んでゐるからだ。この「新劇の殻」といふ問題では、数ヶ月前「劇作」誌上で述べたのであるが、現在の日本は、もう「新劇の殻」を悉く振り捨てなければならぬ時機だ。殻とは何かといへば、繰り返すことになるが、西洋翻訳
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