芝居をぶち毀すのだ。ただ、その芝居を平気で見てゐられるとすれば、その人は、「正確」であると思ひ込んでゐるだけだ。つまり芝居がわからないのだ。北村氏も云はれる如く、たとへ、翻訳劇にその「正確さ」が多少ゆがめられてゐたにもせよ、嘗て、築地の舞台に於て名作の名演出が、十二分の魅力を放つたかもしれない。
 しかし、それも、程度の問題で、日本だからと云ふにすぎなくはないか。殊に、忘れてはならないことは相当外国文学の素養があれば、翻訳は、それ自身のもつ欠陥を多少補ひつつ読めるのである。舞台も同様で、その作品を十分翫味してゐれば、演技や演出の不備は、ある場合、自分の幻想によつて塞ぎ得るのである。
 兎も角も、過去に於て、日本の新劇が、翻訳劇から出発し、その歴史の大半を、翻訳劇によつて埋めたといふ事実に対して、私は、何等口を挟まうとは思はない。要は、その時代の権威ある指導者が、何故に、今日の結果を予想して、適切な警戒を加へなかつたかと云ふのだ。何故に、完全な日本語を、正確に喋れない俳優を作つたかと云ふのだ。罪を俳優に被せるのもよろしい。たしかに、彼等にも怠慢の罪はあるだらう。修業の方法を誤つたと云つても差つかへない。が、私は、今日、何人の罪を問ふてゐるのでもない。それどころか、過去の新劇指導者が、直接間接、日本の演劇に与へた大きな功績は、北村氏と同様、幾度も、公にこれを認めてゐるくらゐだ。ただ、私の北村氏と異る立場は、先輩に対して、事情の如何に拘はらず、その過失を指摘し得るか得ないか、つまるところ、人情の問題以外にはないのだ。
 さて、私と雖も、新劇の病弊を、一から十まで翻訳劇の紹介的上演に帰するつもりはないので、北村氏の説の如く、新劇にたづさはる総ての人間の罪もないことはない。ただ、その話は少し別な話になるやうだ。で、問題を本筋に戻さう。
 丁度今、郵便一束の中に「あらくれ」といふ小冊子がはひつてゐた。何気なく、「軽井沢にて」といふ正宗白鳥氏の随筆を読むと、かういふ一事がある。
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「先日、日比谷公会堂で、或新劇団所演の『グランドホテル』を見て、詰らなさの限りであると嫌悪を感じ、こんな芝居でも見なければ時が潰せない自分の生存を呪つたが、或書店で偶然英訳の『グランドホテル』を見つけたので、試みに買つて読むことにした。首尾を通じて面白く読徹した。公会堂の芝居とは比
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