頃の青年が、純粋に素人から成る研究劇団を作らうとするもの、即ちこれである。
 何れも、演劇貧困の時代的要求から生れたものであるに相違なく、その意気と抱負は、私はじめ、十分認めることができるのだが、甚だ失礼な言ひ草を許して貰へるなら、何れも、凡そ、その結果が予想され、義理でもなければ、観に行く気はしないのだ。
 無論、何等かの意味で、今までのものとは変つてをり、余程の新劇ファンか、芝居ならなんでも御座れといふ常連には、相当の感興を与へることと思ふけれど、少し批評的に、或は、やや専門的にその舞台を観れば、一二の俳優の隠れた素質を発見するといふくらゐが関の山で、プロダクションそのものには、お世辞にも感心はできまいと思ふ。なぜそんな乱暴な予言ができるかといへば、結局、この新しい劇団のスタアトに於て、新しい「性根」を見せてゐないからだ。つまり、新劇の所謂新劇たる殻が、どことなく、その「精神」を包んでゐるからだ。この「新劇の殻」といふ問題では、数ヶ月前「劇作」誌上で述べたのであるが、現在の日本は、もう「新劇の殻」を悉く振り捨てなければならぬ時機だ。殻とは何かといへば、繰り返すことになるが、西洋翻訳劇の上演から生れ出た一種名状すべからざる演技上の臭味――外国戯曲の傑作を紹介するのだといふ態度から出た、一種のジャアナリスト的横柄さ、その上、さういふ舞台が時を得た夢のあとで、「あれくらゐのことなら、おれたちにでもできる」といふ舞台を甘く見た安易さ、等々の手がつけられぬカサブタだ。
 嘗て築地小劇場の首脳部にあつて、今日もなほ演劇に対する熱情を示しつつある北村喜八氏は、私のこの説を半ば承認され、しかも、それは小山内氏或は築地小劇場の罪ではないと、やさしく弁護を試みられたが、私は、更に、北村氏の説を四分の一承認してもよろしい。それは、この病根は既に、わが国新劇の創始時代から徴候を見せてゐたに相違なく、翻訳劇から出発した新劇の舞台は、それが「紹介的」であると「独創的」であるとに論なく、既に、翻訳につきものの、「概ね正確」なテキストを、「概ね正確」に演じることで満足するより外なかつたのだ。ところが、演劇に於て、殊に、俳優の演技に於て「概ね正確」といふことが、最も恐ろしいことなのだ。
 なぜなら「概ね正確」な台詞の言ひ方や身振りなどといふものは、「全く間違つてゐる」のと同じか、或は、それ以上、
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