ゐる有様は、現在、ありありとわかるのである。これが、所謂某々新劇運動の消長に拘はらず、絶えず、一国の劇壇を、新しい空気によつて包み得る原因である。
それから、日本の商業劇場乃至職業俳優と、所謂新劇の先駆的傾向との間に、何故にかくも深い溝が出来たかといへば、それはいふまでもなく、良い意味での現代大衆劇――凡そ、文明国ならば、何れの国の何れの都市にも存在する、面白く、洗煉されたブウルヴァアルの芝居なるものが、日本には、まだ存在しないからである。これを、プチ・ブル趣味の芝居と呼ぶことは勝手である。
また、日本ならば、インテリ階級の娯楽としてのみ取扱はれるかもしれないが、要するに、西洋では、老若男女、みな一様に興味をもつところの芝居、例へば、仏蘭西でなら、小はクウルトリィヌの一幕物、大はポルト・リシュの心理劇を初めとし、やや、質は落ちるが、バタイユの人情劇とか、ベルンスタンのメロドラマに至るまで、これらは、現代に於ける巴里の商業劇場が、不安なく選び得る上演目録である。但し、これらの作家は何れも、相当の年月を経て民衆に近づき得た作家といふべきで、それ以上、適切な例は最近素晴しい人気を集めてゐ
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